1)リアリズムという用語について
まず「リアリズム演劇」という言葉が往々にして使われますが、これは本当は「演技」について指し示す言葉ではない、と考えてください。
「リアリズム戯曲」というものは確かに存在します。これは、舞台上に出てくるものひとつひとつについて、われわれの生きる日常世界に必ずそれと対応するものがある、という戯曲です。「リアリズム戯曲」では、たとえば(古典劇に登場するような)「美徳」という役や、「ゼウス」という役、「完全なる美女」といった役は出てきません。また、歌舞伎にしばしば見られる、役者がその場で立っていると都合が悪いという理由で黒衣が唐突に運んでくる椅子、といった、舞台上にだけ必要となるものは出てきません。つまり現実世界に対応するものが無ければそれは戯曲に書かない。そしてこうした戯曲の志向を忠実に実現しようとする演出家は「リアリズムの演出」といって差し支えないでしょう。リアリズムの演出家は舞台上の役者に対しても、現実世界に実在する人物のように見えることを要求するでしょう。「リアリズム戯曲」+「リアリズムの演出」=「リアリズム演劇」と言うことが出来ます。
けれどこの「のように見える」というのがくせ者です。外見を似せる「形態模写」では通用しないことは明かです(芝居は1枚の写真ではありませんからね)。そこには「演技」が必要になります。
しかし「演技」についてみれば、「現実と一対一対応する演技」というものはそもそも考えられないのです。「銀座に祖父の代から住む床屋」という「役」は確かに現実世界に対応物がある。しかし「それをどう演じるか」という段階になると、一人の人物の内部という「目に見えないもの(五感でとらえられないもの)」をどう描くかという問題が現れます。「現実世界に対応物がある」ということは、それが人々の五感で把握できることで保証されます。五感で把握できないものを描くには「リアリズム」というおおざっぱな方針では立ち向かえません。そこで「スタニスラフスキー・システム」が生まれるのです。一杯のコーヒー、というものは五感で把握できる。しかしその人物にとって一杯のコーヒーを飲むことがどういうことなのか、にはすがたかたちがない。それを演じるためになんらかのメソードが必要となったのです。
【注1】「リアリズム」の範囲を「自然主義リアリズム(ナチュラリズムリアリズム)」と限定すれば、「舞台上のひとつひとつのファクターが現実世界に一対一対応する」だけでなく、「すべてのファクターの並び方(つながり方)」まで現実世界のとおりにする、ということになります。たとえば舞台上での3メートルの距離は現実世界の3メートルの距離である、というスタンスです。あるいは部屋のセットには壁も作る、というスタンスです。舞台が船の上で、そこにもし風が吹けば、舞台上のすべてのものが揺れるはずだというスタンスです。裏返して言えば、自然主義リアリズムではないリアリズムの場合、観客が「こんなもの(こと)は現実世界には存在しないぞ!」と感じない限りにおいて、省略や代用は可能です。『桜の園』について実際にチェーホフがそう語ったように、観客に「蛙の鳴き声」を感じさせることができるなら、なにも本物の蛙を捕まえてきて鳴かせる必要はない、ということです。
【注2】「社会主義リアリズム」やイタリア映画の「ネオレアリスモ」といったものは「芸術運動」であり、ドグマが定められています。
【注3】以上でわかるとおり、舞台の装置・道具・衣裳が日常的である、ということ自体はリアリズムとは関係がありません。それがリアリズム戯曲の要請に素直に応えようとして採用される場合はリアリズムの演出といえますが、そうでない戯曲の装置を日常的に「リアルに」作っても、その芝居がリアリズムになるわけではありません。
2)「向き合う対象=外部」について
以下は演技の話です。演出家原田一樹氏は「内面」という言葉を「外部との緊張関係の中での人物の内部状態」という意味で用いています。登場人物の言動を「内面」の変遷によって形づくるという立場、これこそスタニスラフスキー・システムです。
ここで舞台上の俳優に求められるのは、その「外部」を、大きなものから小さなものまで多種多様に設定できる能力です。向き合う外部を切り替えるときの鮮やかさや、一度にたくさんの外部と向き合い得る集中力、によって俳優の能力に優劣がつきます。そしてその「外部」は、あくまで台本に書かれたことを丹念に読み込んでいく中で見つけだされていきます。(この「外部」の一種として「こうありたい自分」も含まれる、ということも重要なことです。)「大きなものから」と書きましたが、それは例えば「神」です。登場人物が神と向き合っている、という演技を、スタシステムで演じることが出来ます。
ただし、この場合、「神」はあくまでも「相対的な外部」です。いろいろある外部の一種です。神という存在は「絶対者」だとしても、演技の上では「相対的な外部」なのです。
例を挙げてみましょう。
恋人同士が東海道を旅している。ふと女が立ち止まる。
このとき俳優には「なぜ立ち止まるのか」の理由が必要です。台本のト書きに「女、歩みを止める」と書かれているから止まるのだ、というのは理由になりません。(この世に生きている人間には「ト書き」はないからです。)スタニスラフスキーでは、「立ち止まる」という「結果」を演じようとするのではなく、「なぜ立ち止まるのか」を演じなければならないとされています。確かに人間は実人生では「止まるために止まる」ということはしません。何かの原因があって止まるという結果が現れるのです。そこでこのときの女の内面を考えていくことになります。
一方、もしこれを歌舞伎俳優が演じれば、彼はこう言うかもしれません。「花道の七三に来たから止まったのだ」と。スタニスラフスキー的に考えれば、現実世界には「花道」も「七三」もありませんから、「七三に来たから」などという理由は「ト書きに書いてあったから」と同様に人物の行動の理由にはなりません。
しかし僕から見ると、「ト書き」と「七三」には雲泥の相違があります。「七三で止まる」ということは役者が劇場空間全体と向き合う行為です。花道から登場した役者がいちど七三で舞台・客席をひっくるめた劇場空間全体を引き受け、それから本舞台に入るわけです。
このとき俳優にとって「劇場空間」は「絶対的な外部」です。持ち道具や相手役や「こうあるべき自分」といった相対的な外部とは比較を絶する対象です。言い換えれば、「内面」がどうあろうと「劇場空間」は存在しているということです。そして役者は、その「絶対的な外部」とは「舞台上にいるあいだは終始」向き合っていなければならないのです。
このような「絶対的外部」を設定するか否かで、スタニスラフスキーか非スタニスラフスキーかが分かれる、と考えていいでしょう。
「絶対的な外部」は結局「神」「世界」「自然」「宇宙」のことです。「劇場空間に向かいあう」あるいは例えば「肉体そのものと向かい合う」「死と向かい合う」ということは、結局はそういうことです。力士は土俵に向かい、土俵は神と向かい合っている、という構造も同じです。
では「絶対的外部」を設定するとして、それは誰がどうおこなうのでしょうか。答えをひとことで言えば、「集団」が「これが絶対的外部だ」と決めてしまうということです。
歌舞伎俳優という集団は、彼らなりの絶対的外部を持っています。
古代アテネの市民は、オリンポス12神(主神ゼウス)という絶対的外部を設定して芝居を見ました。またそのときの俳優は人を石に変えるゴルゴンを絶対的外部にしていたらしいことが知られています。(古代ギリシア劇ではコロスは市民から選ばれ、2〜3名のプロ俳優が「役」を演じました。)
アッラー、のように、教典によって明瞭に定義された絶対的外部もあれば、ある狭い地域の気候風土に規定される習慣の積み重ねによって形成されたその地域だけの絶対的外部もあります。常に全身の力を丹田に集約してその力をぶつけ続けていなければたちまちに俳優を滅ぼしてしまうような荒神もいれば、ただ人間が無心に立ちさえすれば限りない恵みを与えてくれる南国的な神もいます。
いま演劇をおこなうものが絶対的外部を設定するなら、それはその演劇集団内で「何を絶対的外部とするか」を選択し、それをメンバーが共有する、というプロセスになります。非スタニスラフスキーの立場を選んだ演出家なら、このプロセスを集団内で主導する仕事を背負うか否かが次なる大きなチョイスになります。そしてこのプロセスを主導しているのならば、「何を絶対的外部と設定するか」がその演出家のアイデンティティだと言えるでしょう。また俳優が演出家を選ぶというケースにおいては、その設定を共有できるか否かは大きな判断材料となるでしょう。
【注4】厳密に考えれば、「リアリズム演劇」に求められる演技をスタニスラフスキー・システムとは別の方法で実現する、という選択肢もあるはずです。しかしそれに成功した例というのを僕は聞いたことがありません。結局は「<リアリズム演劇における演技>イコール<スタシステムを基本に据えた演技>」という等式が常識となっています。
【注5】一方でリアリズム戯曲でないものを上演する際の演技としてスタシステムを用いるということはしばしばおこなわれています。むしろ旧ソ連東欧圏・アメリカ・中国では、どんな戯曲に対しても演技の根本はスタ・システム、というのが通例だと言えるでしょう。スタ・システムによる演技と非リアリズムの戯曲とをどうつなぐか、を演出家が巧みに工夫するわけです。僕自身はこうした演劇を「オーケストラが、それ用に編曲された八木節を演奏しているようなもの」として否定していますが、俳優になるには演劇学校での教育を受けるのが大前提になっている国でしかもスタ・システムが教育現場で支配的な場合、その傾向はおいそれとは変わりません。それはいわば<演劇大国の弱点>であり、ここを突くことで日本の若い演劇人が世界を驚かせる可能性が生まれます。
【注6】また、リアリズム戯曲として書かれたものをリアリズムではない演出・非スタシステムの演技で上演するということも頻繁におこなわれています。
【注7】スタ・システムを否定する演出家や俳優で、絶対的外部を設定しないひとびとも大勢います。というかブレヒト以後のヨーロッパの演出家で反スタニスラフスキーの立場に立つ人の多くは絶対的外部を設定することはしていないと思います。それはあくまで「近代(あるいは近代演劇)」の範囲内で反スタニスラフスキーの立場をとっているということです。つまり上記の「<絶対的外部>を設定するか否かで、スタニスラフスキーか非スタニスラフスキーかが分かれる」というのは、日本の60年代においては確かにそうなっていましたが、欧米においてはそこまで根本的なところで分岐しているのではなく、近代主義の範囲内で、非スタニスラフスキーの人々が分岐していった、という事例のほうが遙かに多いと言えるでしょう。
(以上)
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