宮 城 聰 
二十代の俳優へ

 能と狂言、という対比が一番典型的と言えるだろうが、古来演劇には「悲劇」と「喜劇」の二種があり、それぞれ異なる機能で観客を楽しませ、感動させてきた。むろん一本の芝居の中にこの二つのパートが混在する作品もあるわけだが、ここではその機能=観客を動かすメカニズムに焦点をしぼり、差異を明確にしておこう。
 ギリシア悲劇(あるいはオペラセリア)や能に代表される「悲劇*」と、ギリシア喜劇(あるいはオペラブッファ)や狂言に代表される「喜劇」とを、まずその登場人物によって区別してみれば、前者には神・死者・王・美女・英雄・極悪人など、観客が日常生活で決して出会うことのない者たち(観念が衣をまとった、とも言える非等身大の人物)が登場するのに対し、後者にはまさに観客が日頃目にしている等身大の人物が登場する。

(*悲劇、という呼称はそれが「悲しい劇」であるかのような誤解を与えるが、当然ハッピーエンドの悲劇もあるわけで、私は「悲劇」を「鎮魂の祝祭(劇)」と言い換えたりしている。)

 では悲劇と喜劇がそれぞれどういう働きをするかだが、どちらも観客の、日々の暮らしで感じているストレスを浄化する作用によって人々から必要とされてきたに変わりはない。ただその浄化のしかたが、ずいぶん異なっている。
 喜劇は、観客の日常生活のひとこまを、まるでルーペを当てるようにして再現する。観客は「あるあるこういうこと!」「いるいるこういうひと!」と感じる。自分の日常が、自分自身で見ることが出来るように鏡に写し出された、といった趣である。
 ヒトは集団を作らなければ生きていけない生き物だが、例えば類人猿の集団と比較しても明らかなように、集団の中で過剰なほど多くの「決まり」を作ってしまう習性を持っている。それらの一部は法や契約という形で顕在化しているが、実は大半が目に見えないキマリであり、こうしてヒトは、社会の中で生きる限り(ことさらな悩みを抱えていなくても)無数の「縛り」を受け、それだけのストレスを背負いこむ。喜劇が描くのはこうした「縛り」、つまりヒトがヒトと一緒に暮らすときおのずと生じてくる「縛り」であり、その中には嫁姑のいさかいや離婚・結婚といった起伏のあるものから、ごく何気ないスケッチまでが含まれる。
 喜劇俳優の作業は、こうした「縛り」がヒトの体に与えている影響を克明に示すことである。例えば立ちションベンをした男がその3分後に交番の前を通る時、彼の歩き方はどうなるだろうか。通常、ヒトはこうした日常的事件のさなかに自分の体がどうなっているか、つぶさに観察してはいない。多くの場合、身体が変化したことさえ気づかずに日々を送っている。また例えば進路のことで対立している息子と父親。この息子の体のありようは、父親の帰宅前後でどう変わるだろうか。父親と同じ食卓を囲んだときどう変わるだろうか。当の本人が一番自覚していそうなこうした大きな変化も、当事者が詳細に把握していることは少ない。むしろこうした露骨なストレスは思い浮かべることさえイヤなので、いっそう観察されず、あいまいな塊のまま心にのしかかり続ける。
 体の変化、というのは歩き方や目つきや相手との距離のとり方といった外見上のことばかりでなく、身体感覚の変化もむろん含まれる。反応のスピードが妙に早くなったり、聞こえてくる音の周波数エリアが変わったり。人のことばからいちいち具体物の図像が思い浮かんだり。俳優はこうした体の変化をできるだけ細かく把握し、観客に提示する。ふだん観客たちが見過ごしている変化だから、時に俳優の提示には誇張を伴うが、誇張のもとにはきわめて冷静な観察がある。観察そのものが大まかだから表現が大袈裟になっているのではなく、喜劇俳優は自分や他人の体の変化を「等物大」で看取する醒めた観察力を持っている。
 こうして喜劇の舞台は、観客が身をもって体験しているストレスそのものを、観客の外側(つまり舞台上)に再現することになる。そのストレスが、微細すぎて気づかれていない場合も、またイヤすぎてふだん目をそむけている場合も、どちらにしても観客はまず自分のストレスを客観的に見る機会を与えられるわけだ。しかも舞台で再現される事件に「わがこと」として反応するのは自分ひとりではない。自分ひとりにのしかかっていると思いこんでいたストレスが、実はまわりの観客たちみんなと共通のものであることも明らかになる。この2つのステップ――客観化と共有化――によって、観客は自分のストレスを笑い飛ばし、束の間の自由を獲得する。あいまいな塊によって詰まっていたパイプが貫通し、精神の便秘が快癒する。
 だがこうした手法ではどうしても扱いきれないストレスもある。例えば天災がそうだ。或いは死。または運命。神(宗教)。そして戦争。
 これらは、ヒトがヒトと一緒に暮らす時生じてくる縛り、とは言えない。神(宗教)や戦争はそこにつながる部分もあろうが、いかんせんスケールが大きすぎてヒトの目線ではとても捉えきれず、結局天災と同じようなものとして人間界を覆う。ひとことで言えばこれらは人間にとっての「謎」である。どうしてこうしたものに自分たちが支配されているのか、一生涯、どんなに冷静に周囲を観察しながら生きても決して解らない。
 こうした謎、言い換えれば「この世界のなりたち」を、詩人の直感的把握によって捉え、それを観客に示すのが悲劇に他ならない。
 ただし観客にとっては、目の前で「ヒトの運命はどのように決められるのか」とか「現世と冥界の関係はどのようなものか」「戦争とは何なのか」とかをいかにみごとに見せられたところで、それを笑い飛ばし、そこからふっと自由になれたりするわけではない。むしろふだん巨大すぎてとらえどころの無かったその問題ときちんと向き合い、思いを致すことになる。だがこれも観客にとっては日常のストレスの浄化につながる。なぜなら、悲劇が取り扱う大きな時間と空間を前にして、観客は自分の生きる時空間がいかにちっぽけなものにすぎないかを感じ、そしてこの自己相対化により、日頃自分が立腹したり苦しんだりしていることがいかに取るに足らない些細なことであるかを感じるからである。つまり喜劇は観客の日常的ストレスにルーペを当て、悲劇は日常世界の遙か上空から航空写真を撮る。作り手の視点の動きでは正反対とも言えるこの二つが、交互にヒトのストレスを浄化する。こうして古来より演劇はヒトがよく生きるために必要とされてきたわけである。
 喜劇俳優の作業については前述したが、それでは、悲劇はどのような演技によって上演されるのだろうか。
 右に(喜劇と悲劇が)交互にヒトのストレスを浄化する、と書いた。能と狂言は交互に演じられるし、一日がかりで上演されるチベット劇のプログラムも似たような構成を持っている。オペラブッファはもともとはオペラセリアのあいだに挟まって上演されたし、歌舞伎も一日通して見ればそうなっている。もっと欲張りに、ひとつの幕の中にこの両方を併存させようと試みたのがホーフマンスタール&シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』だ。まぁ別に一日のうちに両方見たいとまでは言わないが、観客としては悲劇と喜劇、望めばどちらも見られる環境が欲しいと思う。
 しかし今の日本で、上述のような意味での悲劇が、どのくらい上演されているだろうか? 台本こそ『ハムレット』だったり『マクベス』だったりしているものの、実はそれらのほとんどが「喜劇」なのではないだろうか?
 ――話を戻そう。悲劇の上演はどのような作業によって実現されるのだろうか。
 ここで一番重要なことは、この世界の航空写真を見せることだ。その為にこそ登場人物は王や死者、絶世の美女や理想の英雄に設定されているのだ。では俳優はどうすれば、ここでの王や死者を演ずることが出来るのだろうか。
 繰り返すが、ここでの王は観客が「いるいる、こういう人!」と膝を叩くような対象ではない。何百年もの国の歴史を、舞台上の数時間に凝縮して引き受けている、「概念が衣をまとった」人物である。観客がその王を見て自分の身のまわりの誰かをありありと思い浮かべるようなことは劇の機能を損なうばかりである。観客のそうした意識は、観客たちがこの世界を遙か上空から見ることを不可能にする。
 やはり能を想起していただくのがいいだろう。能のシテに於いては、人物の日常的な仕草・クセ・喋り方、すべてが排除されている。身なりからして非日常である。観客が自分のまわりのだれそれを思い浮かべるようなよすがは全て消されている。ひとことで言えば、身体が抽象化されている。それが果たされるために、仮面が大きく与っている。
 悲劇上演を可能にするために仮面は大きな力を発揮する。だが仮面が必須かと言えばそうでもない。能にも稀に直面(ひためん)のものがあるし、歌舞伎やエリザベス朝の悲劇でも仮面を使わない。仮面は悲劇上演の本質ではなく、俳優が身体の抽象化を成し遂げるためのツールである。カタカリ(インド・ケララ州)や京劇の、仮面と見まごうばかりのメイクも同様である。
 ・・・はずなのだが、現代の「先進国」では、仮面無しで悲劇を演じるのが極めて難しくなっている。というのも、近代社会では俳優と観客の社会的階級が同じになってしまったからである。カタカリでさえ、その俳優になれるのが特定のカーストに限定されていた時代は終わり、他の階級(すなわち観客の階級)からでもカタカリ俳優になれる道が開かれている。観客と同じ階級、ということは、観客と同じような教育を受け、同じようなテレビを見て、同じような食事をし、まあ同じような経済レベルの生活をしているということである。そういう人間、つまり観客にとっては自分の席の隣に座っていてもいいはずの人間が、たまたま舞台側に行って劇中人物を演じているのが「先進国」の芝居である。こうした状況では、俳優が自分の身体を舞台上で抽象化しようとしても、ちょっとやそっとでは成し遂げられない。「わたしは王子である」と登場したところで、観客にとってそこにいるのは常日頃目にする現代の若者たちのひとりにすぎない。もし「王子」なら、どんなものを食べどんなトイレや風呂に入っているかなど観客にはまず想像がつかないはずだが、実際舞台上に居る俳優の身体は、どこをとっても見慣れた若者たちのひとりであり、おのずとふだんの生活が透けて見えてしまう。辛うじてその俳優が外国人である場合に「王子」としての幻想が保たれることもあるが、それすら今や――フランス人がマクドナルドとコカコーラで満足する時代である!――風前の灯だ。(つまり身体の平準化はグローバルに進行している。)「王子」ならまだしも、これが「わたしはゼウスである」と出てきた日には、「どこがゼウスやねん!」と突っ込まれるのがオチである。
 ・・・観客と俳優が別の階級に属していること、つまり隔たった身体性を持っていることが、多くの悲劇の成立を容易にしていた。その前提がなくなった近代社会で、それでもなお悲劇を成立させるための工夫と努力は、決して十分におこなわれているとは言えない。
 先に、今の日本の芝居はほとんどが「喜劇」なのではないか、と書いたのはこのような意味においてである。つまり俳優の作業(あるいは演出の作業)が、喜劇を演ずる技法だけになっているのではないか、ということだ。ハムレット役を演ずる俳優は、我々のまわりのどこかに確かに居る人物として、ハムレットを微細に造形する。観客は「確かにいたよ、昔、高校のクラスメートでひとりこういう奴が!」といった“リアリティ”を感じ、それを楽しむ。あるいはまた、自分の隣席に座っていてもおかしくない青年が、デンマークの王子ハムレットという身の丈に合わない役を、いかに彼の等身大にまで引き寄せられるか――その作業自体を見て楽しむのである。
 もちろんその種の芝居の面白さは否定されるべきものではない。ただ問題は、我々の時代の現代劇がそれ一色に染まってしまうことだ。このアプローチでは、ハムレットの義父殺しは、新聞の三面で、あるいはテレビのワイドショーで報じられるたぐいの、「身の回りで起こりうる」事件として観客に届く。それは日常そのものの再発見としての切実さは持っている。しかし「王」が死ぬことは市民が死ぬことと質が違うのだ。「王」が狂えば国が滅ぶかもしれないのだ。そしてひとりの発狂、ひとりの死が何千人何万人の生活や生命に影響するような、そんな事件は決して我々の「身の回り」では起こり得ないものだ。
 等身大に引き寄せるアプローチでは、本来悲劇が果たすべき機能が損なわれている。世界の俯瞰が、なしとげられない。「彼の事情」は表現されたが、「世界の事情」は表現されない。ここには「祝祭」は無い。「人間は、生まれ、そして死ぬ存在だ」ということを、「理の当然」として、あるいは「世界の必然」として断言するような仕事、古代の詩人が果たした仕事は、殆ど引き受け手を失っている。
 ところがそれに対して、現代世界は複雑である、現代の犯罪は理由なき犯罪である、現代の死は本来死が持つべき荘厳さを失い無意味なものとなった――だから古代のように「世界の見取り図を示す」ような作品が作り得ないのだ、(そんなものを作ろうとすればそのアーティストは観客から「オメデタイ」人と見なされるだけだ)、という言い方がかなり横行している。はたしてそうだろうか?
 現代は複雑すぎて捉えようのない世界だ、現代にはワケのワカラナイ犯罪が急増し、すべての規範が無効となっている、といった言辞は、「物事はすべて理解可能である」という(近代特有の)幼稚な前提に立つ者の口から吐かれているのではないだろうか。この言い方は、裏返せば昔の世の中や未開社会は単純で、もっとワケがワカリ、その見取り図を示すのも容易だった、と言っているようなものだ。だが、いつの時代に「死とは何か」「運命とは何か」「人間とは何か」といったことが、単純でわかりやすいなんてことがあり得ただろう? また「なぜ人は人を殺すのか」という問いに、誰もがうなずく明瞭な答などあった試しがあるだろうか? いつの時代にも人間存在は謎のかたまりであり、人間が為すことの何パーセントかは、つねに「ワケがワカラナイ」ものだったろう。それを敢えて「理由なき犯罪云々」と呼ぶ人がいるなら、それは「物事にはすべて(ヒトが理解できる)理由というものがあるはずだ」即ち「本来ならすべての物事が理解可能なはずだ」という前提に立っているということだ。そういう前提に立てば、理解できない出来事、理解できない人物は「ブキミ」ということになり、排除の対象となる。だがこの前提が、二十世紀を大量殺戮の世紀としたのだということを忘れてはいけない。
 エウリピデスの悲劇ではしばしば次の言葉がコロスによって幕切れ近くに語られる。「神々の御心はさまざまに顕われ、おもいを越えたみわざも多い。おもいもうけたことは成らず、おもわれぬことを成しとげ給う。この出来事も――そのひとつ。(中村善也・訳)」ここで言われているのは、神の意思としてなされるこの世の出来事は、神にとっては筋が通っているのだが、人間から見るとさっぱりワケがワカラナイものだということだ。そして人間もまた神の造ったものである以上、同じ人間の目の高さから見れば、これまた謎のかたまりに他ならない。「神々の手にある人間は、腕白どもの手にある虫だ。気まぐれ故に殺されるのだ」(『リア王』小田島雄志・訳)。人間の知恵をどう帰納的に積み重ねても、「腕白ども」が次に何をするか、なぜそうするか、わかりはしない。
 世界のなりたち、世界の原理は、人間が「なるほどなるほど」と納得できるようなものではない。悲劇の作家が捉えた「世界のなりたち」は、人間の知恵ごときもので解釈された世界ではない。ワケがワカラナイまま、「しかし世界はこうなっているのだ」と示すのだ。まさに航空写真、この世界の地図である。地図を見れば「世界はこうなのか」ということはよく判る。しかし、「ここに山があること」「そこに川があること」はほとんどが偶然の産物である(と人間には見える)。観客に地図を提示する悲劇詩人は、世界を矮小化するような解釈をほどこさない。「なぜここに山があるのか」を人間にわかるように説明しようと腐心すれば、結局地図そのものが説明に都合の良いように歪曲されてしまうことを知っているからだ。
 つまり悲劇詩人は「近代人」のように傲慢ではないのである。
 ワケがワカラナイままの形でこの世界を見せたとき、そこに湧き起こるのは祭りである。人間の知恵で解釈し得ない世界の原理に対しては、ただ畏れて、そして寿ぐほかないだろう。そしてそんなワケのワカラナイ世界で、それでもちゃんと生かされているこの瞬間のありがたさ、神への感謝が噴き上げるのだ。世界(宇宙)への驚きと畏れ、そして生命の流れが絶やされず続いてゆくことへの感謝。あるいは、今自分たちが生かされる為にかつて死んでいった者たち、への感謝。悲劇は、そもそもそれ自体が神への感謝の表現であったばかりでなく、それを見る観客たちの体内で傲慢を滅ぼし 神への感謝を湧きあがらせる、そのための装置として働いたのである。そして観客にとってのこの心の出来事が、先に述べた、日常のストレスの浄化をもたらしているわけである。
 古代でも現代でも、「未開」社会でも「先進国」社会でも、人間という謎の深さは少しも変わっていない。だからこそギリシア悲劇や密教の思想が現代人にも(「骨董」としてではなくむしろ同時代の作品以上に)生々しいインパクトを持ち続けているのだと言えるだろう。近代とは全く異なる宇宙観・生命観の上に成り立っている能もまた、決して「オメデタイ」表現と成り下がることはない。近代合理主義が思いのほか染みついてしまっている我々を、その先の思想に導くために、むしろ能のような表現は今後一層その有効性を増すことだろう。
 私はここで、ギリシア悲劇や能を手放しで礼賛し、その有効性に全面的に帰依しよう、と主張するつもりはない。ギリシア悲劇には当時のギリシア市民社会が持っていた抑圧性や差別性が反映しているし、我々が今ギリシア悲劇を上演する際にはその部分についての表現者としてのスタンスを明らかにしないわけにはいかないだろうと、私は思っている。また能に関しては、まずその詞章が観客にとって「なにを言っているのかさっぱりわからない」時点で、現代演劇とは言いようがないと思っている。しかしそうした限界は限界として、重要なのは、ギリシア悲劇や能の作家たちがこの世界の混沌を「混沌のまま」全体的に捉える感覚を持っていたということだ。これこそ、現代の演劇人が絶えず思い出さねばならないことだ。「喜劇」だけでは果たせない演劇の使命があり、それを引き受ける演劇人の登場が待望されていると思うからだ。
 古代では誰もがこうした古代的宇宙観に生きていたのだからそこでは悲劇詩人の仕事もやりやすかった、とは決して言えまい。混沌に対し目鼻を付けていったら、混沌は死んでしまった、という荘子の逸話にもあるとおり、ある意味で混沌それ自体に向き合うのは大変な難行であり、どうしても目鼻を付けたくなってしまうのが人間というものだとも言えるだろう。実際ギリシア悲劇を読んでいると、まさに「すべての物事は理解できるはずである、理解できないものがあったとすればそれは野蛮なものであり、排除の対象である」という思想(の原点)を当時のギリシア人の中に見いだすことができる。だが悲劇の作家たちは、そういう思潮にいささか流されつつも、最後のところでは「混沌を混沌のまま捉える」という詩人の仕事を守っている。ここに悲劇作家の偉大さがあり、その仕事はむしろ「時代に抗う」精神によってなしとげられている。
 今の日本には、「時代を読みとる」力量に秀でた演劇人は多い。さまざまな社会現象を、その流れに寄り添って、巧みに舞台に再現し、あるいは解説する。日本の演劇界がそうした人材をこれほどに輩出していることは世界に誇れることだし、欧米諸国に比べて若年層が大挙して劇場に足を運んでいるのもこうした才能たちのもたらした成果だ。
 しかしそれだけでは、である。それだけでは、演劇が受け持つべき仕事(かつて人々が演劇に負託した仕事)の半分しかやっていないことになる。もう半分を受け持つ演劇人が少なすぎる。そして、人々が近代合理主義に別れを告げようにも、その先導となる詩人が見あたらないために、現代人の精神は途方に暮れている。演劇の代わりにカルトがその受け皿となったりする。安っぽい思想しか持っていないカルトでも、ただ時代に抗い世界を俯瞰できるという確信を持つグルさえいれば、その営みの「気高さ」だけで人を惹きつける。カルトの隆盛は、演劇人の怠惰の結果だとさえ言える。怠惰、あるいは臆病。あるいは・・・目先の事態にしか切実さを見つけられない表現者としての「自信のなさ」。
 近代社会がそれ以前の社会と比べて「複雑化」したと言えるのは、ひとりの人間が出会う相手の数が飛躍的に増えた、という意味においてである。このことにより、最初に述べた、ヒトがヒトと一緒に暮らすときに生まれるキマリは、爆発的に増えてしまった。つまり喜劇のネタが、爆発的に増えたのである。そして人類史上でも至って新しい、たくさんのキマリによって、人々は右往左往している。だが、このテーマに誰も彼もが蝟集する事態は表現者にとっての「ゴールドラッシュ」であって、これを描きさえすれば現代的で・切実で・人から求められる表現になる、というのは安易に時代に流された考えと言わねばならないだろう。
 ヨーロッパではかなり前に消えてしまった「世界を俯瞰する」劇が、アジアでは最近までヴィヴィッドな生命を持っていたことを思い出し、我々は(劇作家も演出家も俳優も)「詩人たりうる」のだという自信を回復しなければならない。この自信をかき消していったのが近代的人間観であるなら、演劇人は実のところ最もどっぷりと「近代」にひたった人々として、やがては時代からも、取り残されてゆくにちがいない。
(了)
【初出:季刊『演劇人』5号(2000.7)】

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