一、演出家は戯曲に対する最も悪意ある読み手である
二、演出家は他者同士の出会いの場をしつらえる司祭である
三、演出家は言葉と肉体の関係に深く分け入ってゆく探索者である
四、演出家は空間を変容させる者の謂いである
そのむかし駿台予備校で「予備校教師は五者である」という説を聞いたことがある。その伝でいけば演出家もまた五者に違いない。
五者とは、学者・役者・医者・易者・芸者の五業兼務を指す。
いやこの五つではとても収まり切らない、と感じられる向きもあるだろう。時に経営者であり、時に引率者であり、時に求道者であり時に伝道者であり。中には道楽者までいる。
これは冗談だが、ともあれ演出家は実にいろいろなことをする。また、人間にいろいろなタイプがいる、というのと同じくらい広いレンジで、演出家にもいろいろなタイプがいる。だから「演出家の仕事はこれこれのことをすることだ」と定義するのはとても難しい。例えば「集団を率いること」が演出家の仕事か否か、と考えると、「そうである場合もあればそうでない場合もある」としか言えなくなってくる。
そこで僕は、逆に「これをしない人は演出家とは言えない」という条件を考えてみた。そうして出てきた答が頭書の四箇条である。僕にとってはこのうちどのひとつが欠けてもその人を演出家とは呼べなくなる、そんな四項目である。
順に、少々詳しく述べてみよう。
1.演出家は戯曲に対する最も悪意ある読み手である
もし演出をしようとする人が、その戯曲を読了した瞬間十分に感動していたなら、もはやその人は演出する必要はないだろう。単に、原作を読むよう人々に薦めればよいのだ。またそのような人が演出したとしても、まず原作を超えられないだろう。「戯曲を読んだ方が面白い」という、よくある類の舞台にならざるを得ないことだろう。
それがどれほど優れた戯曲であっても、それを舞台化したいという衝動に価値があるのは、恐らく、その衝動の奥に読了した瞬間の「物足りなさ」が横たわっている場合のみなのだ。
ここでの「物足りなさ」は「達成感のなさ」と言いかえてもいいだろう。「思ったほどは面白くない」「確かに面白いが、何かひっかかる」「とても面白い、しかしこれが舞台になるのだろうか」――もちろん、義務でもないのに最後まで読んでしまったということは何かしら惹かれるものがあったには違いないわけで、とすればこの「達成感のなさ」は「何に惹かれて読み終えたのか、いまひとつ判然としない」ということだとも言えるだろう。
古典劇の演出をすることが演出家にとって必ず良い修業になるのは、出発点においてこの「物足りなさ」がほぼ確実に約束されているからだ。
ギリシア悲劇でもシェイクスピアでも、あるいは「現代劇の古典」となった安部公房の戯曲にしても、改めて読んでみるとその第一印象は大抵「思ったより面白くない」となるだろう。
「思ったより」というのは古典劇の場合「これほどメジャーなんだから当然面白いはずだ」という前提のことであり、「思ったより面白くない」というのはそういう評価と自分の読後感にズレがあるということだ。
このズレこそ、出発点において何より重要なものだ。例えばいまの若い演出家にとって安部公房の戯曲は、一読、昨今の中堅劇作家の諸作よりつまらなく思えるだろう。しかし安部戯曲は、世界的に見れば三島由紀夫と並んで日本の現代作品中最も知られまた上演もされているわけで、やはりそこには「何かがある」はずなのだ。
なんでこれが?! この疑問、あるいは距離感が演出という創造行為の生成点となる。演劇をあらゆる局面において「他者」と出会ってゆくための装置だと考えれば、演出家にとって創作プロセスの最初に置かれた「他者との出会い」がこの戯曲との距離感、ズレだと言えるだろう。ここからスタートする演出作業は、おのずと戯曲からT隠された何かUを発見する作業、あるいは新たな価値を戯曲に付け加えてゆく作業とならざるを得ない。こうして演出という仕事は、戯曲の挿画をつくる職人業を突き抜けて、「創作行為」と呼びうる域に入ってゆく。
「思ったより面白くない、でも何かあるはずだ。」――演出家にとってこのT入場券Uをほぼ約束されるのが古典劇だ、ということは、ひるがえれば二つの教訓を示している。ひとつは、はなっから古典劇が面白くてしようがない人は、あまり古典劇の演出には向いていない、ということだ。自分とは全く異なる環境で生まれ育った劇作家の作品を読んで、たちまちその作者に共感し、その作者を「他人とは思えない」と感じるような人は、その戯曲の翻訳までは可能でも演出は困難であろう。
演出は俳優という他者と出会う作業でもあるが、同時に、俳優と共に戯曲という他者と出会ってゆく作業でもある。まず演出家が戯曲の他者性にとまどい、そして徐々に出会ってゆけた場合には、やがて稽古場で俳優が戯曲と出会うなかだちを演出家がつとめることができる。初めから演出家と戯曲が融着してしまっていてはこの役割が果たせない。この場合俳優はそんな演出家の他者性にとまどいはするが、その向こうにある戯曲そのものとはなかなか出会うことができないのだ。
研究者が、その研究の対象としてきた愛着ある戯曲を演出する場合の困難はここにある。また、それをしも見事に演出し切る研究者がいるなら、その人は一旦家族となった者を演出開始時にスッパリ他人の関係に戻せる、力業の主だということになる。
二つ目の教訓は、いま述べたことと重なる。つまり演出をしようとする者がその戯曲を書いた本人である場合、それはもうたいへんな難事業だということだ。
自分の産んだ子を、人前では、赤の他人として扱う。相当に難しい。
しかしこれの出来る劇作家もいる。例えば唐十郎だ。僕は状況劇場を見始めた頃、上演された戯曲の内容は単行本を買って読むまでさっぱり判らなかった。読むと「こんな話だったんだ、あの芝居!」と思った。そしてもちろん、上演は上演ですぐれて演劇的な感興に満ちていた。演出家唐十郎は、劇作家唐十郎の戯曲に、思いもよらない意味を付け加えていた。いや、「思いもよらない用途を見いだしていた」と言うべきかも知れない。台所のフライパンがヌード写真の股間を隠すのに用いられる驚き。(いやもっと驚いた。)
どうすれば赤の他人のように扱えるのか。自分のお腹を痛めた子が可愛い、という感覚の一方で、その子が妙に自分に似ていることへの気恥ずかしさ、人目のある所では他人のふりをしたいという感覚、も我々にはあるだろう。親に対しては容易に抱けるこの感覚を子(自作)に対して抱く、この「気恥ずかしさへの敏感さ」が唐十郎の自作自演出を可能ならしめたのかも知れない。気恥ずかしさこそ才能だったのだ。
だが注意してほしいのは、唐十郎はとても筆が速いということだ。九ヶ月あまりもお腹にいて、自分の身を削ってまで養分を与え続け、やっとのことで世の中に出てきた、というのでは、そうおいそれと「恥ずかしいから離れてろ」とは言えなかろう。
書き始めてから脱稿までわずか数日、唐十郎ほど短期間で戯曲を生み出せる特異な能力の持ち主はそうはいない。遅筆であればあるほど自作の演出は難度を増す、「作・演出」を志すならこの当たり前の「人情」を計算に入れてから、どの程度人非人にならないと演出できないか」への覚悟を決めてほしい。
演出をするなら、戯曲の美点をたちどころに見いだし、「こういうことがやりたかったんだ」「こういうことが言いたかったんだ」とさっさと理解するような気のいい読み手であることを放棄し、戯曲に対して「これって面白くないんじゃない?」「何がやりたいの?」と突き放し、「けれど何か気になるところがある」、だから「なんとかこの出来損ないの戯曲を救えないか?」と考えるところからスタートする、そういうイヤな奴にならねばならない。
「なんとかこの出来損ないの戯曲を救えないか」・・・どんな傑作に対してもまずこのスタンスに立てる悪意ある読み手が演出家である。
そしてもしそこに自信が持てないなら、是非とも劇作と演出を分けて欲しい。劇作家にとって「この人なら」という演出家を見つけるのは簡単ではないが、劇作家には俳優が他者であるのと同様演出家も他者であるはずであり、また劇作家が劇団の主宰者である場合には俳優を育てねばならないのと同様に演出家も育てねばならない対象なのだ。
というわけですでに
2.演出家は他者同士の出会いの場をしつらえる司祭である
については十分語ってしまった。念のため付け加えるなら、「観客と舞台」の関係もまた他者同士の出会いでなくてはならない、という点で、演出家は観客と芝居がまずお互いに「他者」であることを確認すること、次にその他者が「出会う」こと、のふたつのステップを押さえなくてはならないのだ。
3.演出家は言葉と肉体の関係に深く分け入ってゆく探索者である
いまの日本に生まれれば、まず初めに「俳優」とか「演技」というものを見るのはテレビドラマにおいてであろう。次いでレンタルビデオで見る映画、映画館で見る映画と進み、生の舞台を見るのはほぼ最後、その頻度もいちばん少ないに違いない。このようにして「演技」についての先入観が形成された人々から、もし「テレビ俳優(←俳優 に タレント のルビ)と舞台俳優はどう違うのか」あるいは「テレビドラマのディレクターと舞台の演出家はどう違うのか」と問われたとき、どういう答があるだろうか。
ここでは、改めて「演劇」という表現を成立させる要件を思い出さなければならないだろう。僕は演劇を成立させる三要素を「言葉」「肉体」「集団」だと考えている。どれが欠けてもそれは演劇と呼べないし、逆にまたこの3つを備えているものならば、一見音楽、一見ダンスであってもそれを演劇の一種と捉えることが出来る。
この視点に立てば、テレビや映画と演劇の違いは明白だ。それはもちろん「肉体」の有無である。観客が直接肉体と向きあうか否かである。
とはいえ映画監督や映像作家の中には「私の作品においては観客が直接出演者の肉体と向きあっている」と考える人もいるだろう。あるいは書、詩歌などでも受け手は作品の中にこめられた「肉体」と向きあっていると言うことはできる。ライブパフォーマンスを放棄して以降のビートルズやグールドの残したディスクを聴く時も、確かに我々は彼らの肉体を感じはする。
だが、表現が受け手に渡される瞬間、受け手の目の前に丸のままの肉体がごろりと提出されているということは決定的だ。「目の前に生き物がいる」と言い換えてもいい。T生命Uという現象それ自体、ほど人間にインパクトを与える表現は他にない。この現象は無限に豊かな情報を放つ。映画監督がフレームを決めフィルムを編集するように演出家が舞台上のすべての決定権を握りそれを行使したとしても、あるいは俳優が徹底した訓練を行い身体をコントロールする技術を獲得したとしても、「生命」という現象それ自体を抽象化することは出来ず、その現象のうち見せたい部分だけを見せることも出来ない。目の前にある生命という現象は、その一部を切り取ってみせるという作業を許さないのだ。むしろ演出や演技様式による束縛は、「生命」の周囲に渦巻いてしまうノイズを整理することによって舞台上にこの現象それ自体の豊かさだけを満ち溢れさせることなのだ。そう考えれば、演劇はテレビドラマや映画よりむしろスポーツの試合に似ているとさえ言える。「目の前に生き物がいる」という状態をさらに「目の前で生き物が生きている」という出来事へと純化させるために、厳密にルールを守ることが求められてゆく。
では、こんどはスポーツと演劇を比べるとどうなるか。言うまでもなく、スポーツには言葉が無い。マラドーナの神ワザゴールもサバンナでチータが鹿を狩る瞬間ほどには感動的でない、という言い方ができてしまう。チータの狩りのルールは、自分の能力を最大限生かして獲物を捕らえ種を残してゆくためにあらゆる無駄を削っていった時生まれたルールである。つまりこれもまた「生命」の輪郭をはっきりさせるためのルールなのである。するとスポーツの試合は、その究極の姿においては「人間でなければできないものではない」と考えることができる。むしろ「人間でも(←でも に傍点)ここまでできる」とうことに観衆は打たれているわけだ。
理想像、究極の完成形が人間以外の所に、自然界に帰せられるのは、そこに言葉が無いからだ。だからダンスの多くもまたそうした性質を持っている。「人間でも(←でも に傍点)ここまでできる」ことが感動的なのだ。(ただスポーツとダンスは、前者がそもそも誰かが何かを他者に伝えようとして生まれたものではない、という点で決定的に異なっているが。)
以上の比較から、演劇の最も根本的なインパクトは「言葉というものを抱え込んだ生き物が目の前で生きている」点にある、というところまで絞り込まれた。
言葉というものを抱え込んだ生命体、は地球上に「人間」しかいない。生命という現象の歴史は__億年(←要確認)前に遡り、しかもひとつひとつの細胞が「生きよう」とする意志(あるいは「生きる」ことを常に選ぼうとする方向性と言ってもよい)を持っているという不思議については、結局「神がその意志を埋め込んだ」としか説明のしようがない。一方言葉は1万年の歴史しか持たず(←要確認)、一個の人間の発生を考えても「生命」のようにアプリオリのものではなく後天的に獲得されてゆくものである。しかし人間が人間として暮らす以上は決して言葉から逃れることができず、むろん言葉と出会わずにいることもできない。こうしてヒトの内部で、生命(「神」)と言葉(「人間」)がはち合わせする。この出会いは「神」の方が優勢であるうちはさほどの波風も立たないが、ヒトの住む社会が複雑になるにつれて次第に「人間」が力を増し、ヒトの内部で「神」と拮抗し、そこに格闘とも言える状態が現れる。社会システムが今日ほどに複雑化すればもはやヒトの中で生命の影はすっかり薄くなってしまうが、もとよりヒトが生物でなくなることはできず、この格闘は終わることがない。
時には言葉が生命(肉体)を縛り、あるいは肉体が言葉を規定する。ふだんは糸が切れた凧のようにお互い遠く離れているくせに、時にはお互いその喪失感に耐えられなくなり、熱烈に両者が求愛する・・・。
前述の三要素に戻れば、演劇とは「集団という枠を通して言葉と肉体の関係を探求する営み」だと言っていいだろう。T言葉を抱え込んだ生命体Uが「人間」の別名であり、またその内部で起こる言葉と肉体の愛憎劇が「人間という現象」そのものだとするなら、そこに探索の足を踏み入れることは即ち「人間とは何か」という問いに向かって進むことを意味する。ことさらそれを看板に掲げずとも、優れた演出家は必ずこの営みに深く手を染めている。結果として、まさに演劇でなければできない作品が生み出されてゆくのだ。
4.演出家は空間を変容させる者の謂である
東京やミニ東京化した地方の大都市で新しい劇場が建つと、おおかたはそのうたい文句に「どのようなタイプの上演作品にもフレキシブルに対応」といった類のフレーズが入っている。
空間そのものに主張が無く、それゆえ個性もなく、ただしファシリティはいたって充実しているこうしたホールがあちこちにできることで、東京の稽古場で作った芝居をセットも演技プランもそのままで全国に回せる、という利便は生じる。優秀な舞台監督さえいれば、演出家がツアーに同行する必要もないかも知れない。空間が作品とぶつかることがないからである。コスト的にも労力的にも大変に効率がよい。
市場経済に流通させる文化商品として作られた演劇においてはこの効率を追求することは本質的なことだ。無駄な出費や労力は、最終的に作品の(あるいは今後制作する作品の)クオリティを低めることにつながってゆくからだ。
しかしもし演出家が「これまでになかったものを作る」「まだ人々の知らない喜びを伝える」という本来の意味の「創作」をめざすなら、つまりあらかじめ存在している需要に応えるのではなく、観客にとって「これまで刺激されたことがなかったところを刺激された」という種類の経験をもたらそうと欲するなら、これはそもそも市場経済の商品としての資格を欠いているわけなのだから、経済効率の追求は最優先の事項ではなくなってくる。
こうした作品を前述の用語で言うなら「観客の前に他者として現れる演劇」ということになるのだが、こうした作品をつくる際には「経済効率」の名の下にないがしろにされてはならないものがあるはずだ。
その最たるものが「空間を変容させる」という仕事だと僕は思っている。
演出家は戯曲という他者に出会い、俳優という他者に出会い、スタッフという他者に出会い、観客という他者と出会う。そしてそれらに劣らず、上演空間という他者と出うことで、「演劇」という旅が旅にふさわしい新鮮な質を獲得するのだ。
さらに観客にとってみれば、戯曲や俳優に出会う前に、まず上演空間に出会うのだ。観客の演劇体験の冒頭にある出来事に対して手をこまねくことが演出家(創作者)として許されるだろうか?
ヨーロッパの演劇祭に参加して常に感じることは、向こうのフェスティバルディレクターたちは「なにも出し物が上演されていないときにもそこにいたくなるような空間」を見つけてきて、それを公演会場に選ぶ、ということだ。つまり「空間そのものにあらかじめ主張や個性がある」からこそなんら出し物がなくてもそこにいて楽しいわけで、演劇行為はいつも「空間とのたたかい」として始められる。演出家はまずクセのある空間とめんと向かい、その空間とどのような関係を取り結ぶかを考える。もちろんそれは劇場が何百年ももちこたえる(もちこたえてしまう)ものだという前提で演劇活動をするヨーロッパの演劇人の宿命でもある。彼らはモーツァルトがかつらをつけて出てきそうなロココの劇場でベケットを上演したりしなくてはならないのだ。だが彼らはその制約を逆手に取り、「他者としての空間」に立ち向かうことで自分の作品を創造性をかきたてた。
作り手は「自分の作品にとってやりやすい」空間=自分にとって他者ではない空間をほしがり、新しい劇場の計画があるとすぐ「自分の作品世界にはこうした空間であってほしい」という声があれこれと起こり、施主はそれらを取り入れて(取り入れたふりをして)可変的かつ無個性なホールをつくる、という日本の状況は、ゼネコンに余計にお金を落とすにはちょうどいいが、劇場体験の「驚きの質」を上げることには少しもつながらないだろう。
そしてまた、市場の商品として成り立たない作品を、その「芸術性」を理由に社会が成り立たせる(民間や国・自治体が支援をする)ような場合、その作品のT公共性Uは、ひとことで言えば観客が「ほかでは得られない体験をすること」「それによって世界・人生・生命といったものが、観客自身の、いま目覚めた子供のような目で、新しく発見されること」によって保証されるだろう。その観点からも、観客を包囲する空間を変容させ観客に新鮮な身体感覚をもたらすこと、が演出家に求められていると僕は思う。
(了)
【初出:季刊「演劇人」6号(2000.11)】
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