宮 城 聰 
意味を突破する

◆「演劇の限界」
 僕は高校時代から演劇部に入っていましたし、大学でもいわゆる学生劇団を主宰していました。僕が演劇というジャンルに可能性を見出したのにはそれなりの理由もあったのですが、しかし僕の場合、文学としての戯曲というものにさほど興味があったわけではないので、何年か続けているうちに、演劇という表現方法そのものに或る限界を感じるようになっていたのです。
 それは単純な言葉で言えば「芝居を見ている時、たとえどんなに面白いと思っていても、心のどこかで『早く終わってほしい』と願っている自分がいる」ということでした。これには自分自身、正直、困惑しました。あるいは、観客の時間と場所とを完全に拘束してしまう劇場芸術全般 の宿命なのだろうかと考えてもみました。けれど、ダンスでもコンサートでも映画でも、見ているさなかの自分の心を観察すると、やはり演劇の時ほどには「早く終わってほしい」と思ってはいないのです、その作品がさほどの傑作でない場合でも。
 なぜ面白いと思っているのに「早く終わってほしい」のでしょうか。なぜさほど惹きつけられていなくても、「早くここから出たい」と思わないのでしょうか。劇場の客席での自分の心を繰り返し繰り返し思いかえしてみて、出た結論はいたってシンプルでした。「言葉の意味で観客を引っぱってゆけば、観客の想像力は作品の力によって強く束縛される」。
 僕自身の感覚でいえば、つまらない芝居を見ている時は「こんな言葉につきあわされるのはたまらない」といたたまれなくなり、また面 白い芝居を見ていれば、感動を与えられた直後に、「この感動を自分の中で反芻したい」あるいは「この感動の中で自分の心を游ばせたい」という衝動が生じ、けれど舞台からは、そんなこちら側の都合にはおかまいなしにさらなる情報が客席に向けて発信されるので、見ている側は「とりあえず反芻はあとにして、続きを見よう」と思いつつ、同時に「今すぐここを出てひとりになりたい! さもなくばこの感動を人に喋りたい!」と思わずにいられないのです。
 意味の伴う言葉を、それも文字ではなく、耳から受信している時、人間の左脳はフル回転でそれを処理しています。この作業をしているあいだは、色がきれいだとか美しいメロディだなぁとかいう右脳の仕事はどうやらそっちのけになるようで、人は意味を追うことにすっかり「忙殺」されてしまいます。なぜそんなにも忙しく回転してしまうかというと、それは意味を伴う言葉は、実は一つひとつの持っている情報量 が少なく、理解の際に紛れがない(つまり0か1しかないということです)ので、発信する側も受信する側も次々と言葉を繰り出し受けとめていないと間がもたないからなのです。
 例えば、「山がある」という言葉と という絵(あるいは原始的文字)を比べれば、後者の方がはるかに多量の情報を持っているということがわかるでしょう。日没前後の一時間ぐらい、西の空はずっと「夕焼け」ですが、実際それを見れば、その時間のうちにまさに無限の変化があり、それこそ「間然するところのない」膨大な情報量 を発信しています(ここには、0と1のあいだに、0.1や0.003や100/101があります)。ところが、「空は夕焼けだった」という言葉では、とても時間はもちません。言い終わった一秒後には、「それで?」と聞き返されるでしょう。だから話者は「高い所は赤というより紫色に近い」などと続け、再び「それで?」「頭上を見上げながら、鏡台の前にあった母親の口紅の色を思い出した」「ふーん。それで?」――こうして左脳はフル回転で情報を処理してゆくわけです。

◆叙事の幹と抒情の花
 意味を伴う言葉が観客の想像力を縛っていることの息苦しさから、どうすれば解き放たれるでしょうか。この息苦しさを演劇の宿命だと諦めたり、息苦しさこそ演劇特有の快感なのだとマゾヒスティックになったりせず、なんとかそこを突破する方法を見つけたいものだと僕は考えました。
 言葉の意味で観客を引っ張った上で、しかもそこから拡がろうとする観客の想像力に自由を保証する方法――。これまでの舞台芸術でそれを成し遂げることのできたものが果 たしてあるのだろうかと考えた時、僕がまず思い当たったのは「レチタティーヴォ(叙唱)とアリア(詠唱)」という、古典的なオペラの形式でした。まず人物像なり関係なり状況なりを説明的な節つきのセリフ(レチタティーヴォ)で理解させておいた上で、自分がどんなに悲しいかとか、あいつがどんなに憎いかとかいう感情の花をアリアによってひろげるわけです。アリアの歌詞には、デジタルな情報として新しい内容が含まれることはほとんどなく、観客は、この人物がいま誰々に恋をしているといったことをあらかじめ十分に知った上でその「恋する気持ち」を歌い上げるアリアを聴くので、アリアのあいだは安心して左脳を休ませることが出来、自分の恋を思い出したりメロディや美声に酔ったり出来るという仕組みです。
 まあ、このような時間の流れ方は実際の日常生活から見れば無論「不自然」にはちがいなく、(「桃太郎侍」が長々と名乗りを上げているあいだはナゼか敵が斬りかかってこないのと似ています)、さらにオペラの場合、アリアはもっぱら歌手の個人的技術をひけらかす場所になり、客もまたそれを期待するものだからレチタティーヴォの方は単なるつなぎに成り下がって、結局ムソルグスキーやワーグナーの手でこの形式は葬り去られてしまったわけですが、しかし僕は、加速度的に身体的快感を求めていってしまう「音楽の論理」を野放しにせず、それを巧みにコントロールすることができたなら、その時こそこの形式は最人限の力を発揮することができるはずだと思うのです。
 このように考えてきたとき、古今東西の舞台芸術の中で、その形式において最も高い到達点を示すものとして、僕は日本の人形浄瑠璃(文楽)に思い至ったのでした。
 文楽の構造は二つの大きな柱で支えられていると僕は考えています。すなわち、ひとつは時間の刻みかた(メリハリのつけかた)を全面 的に音楽(義太夫節)に委ねてしまい、その点については演技は音楽に従属するということ。そしてもうひとつは、言葉と動きとを分離させ、別 の者が担当するということです。
 この二つが、文楽の「特徴」などではなく、人形浄瑠璃という劇的マジックの「タネ」だと気づいた時から、僕の「ク・ナウカ」は始まりました。「十年に一度の思いつきだ!」と騒ぎ立てて学生劇団の仲間に声をかけ、オーディションをし、前から気に入っていた他劇団の役者さんにも呼びかけて、この奇妙な名前のカンパニーは、その壮大な実験を開始したのです。

◆ク・ナウカの方法
 ク・ナウカのシステムは人形浄瑠璃とほとんど同じです。題材になる原作を決めたら、台本の大まかな構成を考えた上で、まずとにかく長さ百分ほどの組曲を作ってしまいます。曲の構成は作品の成否の過半を決定するので、このプロセスにはかなりの時間とエネルギーを傾注します。百分間の刻み方がこうして決まったら、次は曲にあわせて台詞を書いてゆくことになります。
 ク・ナウカでは、一つひとつの役について、「語る役者」と「動く役者」が分かれています。「語る役者」の側は、まずひたすら曲を聴きこんで、言葉が台本の計算どおりきちんと曲に乗っかるようにしてゆかねばなりません。これで聴覚部門の基本線が出来たら、こんどは「動く役者」がそれに動きをつける作業が始まります。台本にはレチタティーヴォに相当する部分と、そして時間的にはわずかですがアリアに当たる部分があり、前者に対する動きはあくまで「台詞の意味が観客に聴こえる」ようにすること、つまり「踊ってしまうことを排除すること」を原則とし、後者では逆に「踊ること」が求められます。
 音楽と踊りは実は同じものです。そして僕は、「言葉は現実であり、音楽(踊り)は夢である」と思っています。言葉は現実を引き受け、音楽と踊りは現実から飛翔します。言葉が、リフレインや抑揚によって意味から(現実から)テイクオフしようとする時、それは詩(うた)になり歌になります。そうやってキング牧師の演説は言葉から歌になり、ロゴスからパトスになり、苦悩から快楽になります。喜劇は言葉であり、悲劇は音楽です。
 先にも触れた通り、音楽と踊りは、「やればやるほど気持ちよくなる」という〈快感原則〉を持っています。ひとたび放置すれば、それは「より気持ちよく、より気持ちよく」と流れてゆきます。その中では、観客もまた、現実を忘れてゆきます。いや、忘れるというより、それを夢にしてしまうと言うべきかもしれません。浄化されると言ってもいいでしょう。本質的に「音楽的」なオペラであるベルクの『ヴォツェック』を見る時、客は誰も現実を引き受けてなどいないと断言できます。『ヴォツェック』を見ながら観客は、救いようのない現実を夢のようなものと感じつつ、肉体的快楽を得ているのです。
 演劇という芸術に存在理由があるとすれば、それは他の何よりも「現実に足をつけている」という一点において、その切実さにおいてだと言えるでしょう。すなわち演劇は、言葉と、そして集団にまつわる芸術なのです。(「言葉」と「集団」! われわれがこれほど逃げ出したいと思っているものが他にあるでしょうか?)もし演劇がテレビや映画よりも表現としての力を持つ瞬間があるなら、それは現実というものの束縛をより切実に引き受けているからにちがいありません。ク・ナウカが「動き」と「語り」を分けた時、その「動き」を敢えて人形ではなく生身の俳優に担わせている理由も無論ここにあります。言葉を禁じられた演者と動きを禁じられた話者、それはロゴスとパトスが乖離してしまった一人の人間、言葉と肉体が引き裂かれてしまったわれわれ情報資本主義社会構成員の姿を写 そうとする鏡なのです。

まず足の裏全体で地面を踏む。 次にそこを走る。
やがて或る瞬間足は地面を蹴り、跳躍が行われる。
そして着地する。
その時、初めと何が変わっているのか?
ひとつは、自分が地面を離れることができるという確信。
たしかにそれは、「夢」ではなかった。
もうひとつは、空中から見た、この地面の地図。

(電通総研発行「By-LINE」1993年7月号)

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