宮 城 聰 
マクベスという20世紀
・・・「マクベス」〜新利賀山房(2001年5月)
 戦場で「死体の山を築いて」英雄となったマクベスは、女か男かわからない魔物たちの仕掛けにはまって転落してゆく。
 僕はここに平清盛の死と似たものを感じるのだが、清盛が「ゴミのように捨てられたものたち」の「思い」の蓄積によって死んだとするなら、マクベスに復讐する魔物は(現代においては)何のメタファーだと言えるのだろうか?
 魔は予言する。「森が動いたとき、マクベスは滅ぶ。女から生まれなかった者によってマクベスは倒される。」・・・現代のわれわれには、この予言は森林の破壊と生命倫理の崩壊に直結して聞こえてくる。神のみに許された領域にずかずかと足を踏み入れ、一時の繁栄を謳歌し、しかし繁栄と同時に滅亡を招き寄せていた20世紀の人類、それがマクベスと名付けられているのだ。
 ならば現代のわれわれにとってもっとも身近な大量殺戮とは、堕胎のことではないかと思い至る。いまだ女でも男でもない、抹殺された小さな生命たちが、人間の傲慢を嗤う。
 しかしどこかに希望はないのだろうか?
 それを探しつつ『マクベス』を読もうとしたとき、マクベス夫人が従来通りの存在ではいられなくなった。夫人はマクベスの共犯者というより、マクベス自身の中に棲むもうひとりのマクベスであり、マクベスの欲望の顕現なのだと思えてきたのである。
【2001年4月】
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