宮 城 聰 
ドラマの眼 「許されていた日々の記憶が」
 初めて人前で劇をしたのはいつだったか思い返してみたら、小学校2年の、クラスでの「お誕生会」に思い当たった。
 千代田区立淡路小学校。担任は高橋玲子先生。僕は宿題をまるでやっていかない生徒で、まだ二十台半ばの高橋先生からいつも「無神経!」と叱られていた。学校の雰囲気は、例えば運動会の開会式で「国旗に、注目ッ」と号令が掛かるなど滑稽なアナクロニズムもあったが、東京の下町らしい融通があり、「やりたい!」と申し出たことは何でもやらせてもらえた。近代的自由とは別の自由があった。クラスメイトの半分は城東地区からの越境電車通学なのでいつも現金を持ち歩いていたし、地元の子も商店の子供が多いから、ガキのくせに野球をやりに行くのにタクシーに乗ったり、低学年でゲームセンターに通ったりとおよそ牧歌的ではなかったけれど、人と人のダイレクトな交流は十分にあった。そこでは「人はいろいろだ」ということが前提だった。目立ちたいやつは思い切り目立てたし、なにをやるにせよ得意なやつと苦手なやつ、強いやつと弱いやつがいるということは全然隠蔽されなかった。
 あるとき、月いっぺんその月に生まれた生徒を祝う誕生会を開催する、と高橋先生が言い出した。出し物はどうする、という話になって、ぼくは反射的に「人形劇をやる!」と言った。「題名は?」と聞かれて、口から出まかせで「ひとまね小猿」と答えた。で、当日は、ほとんど何の下準備も無く、3人くらいで、即興で指人形の芝居をした。僕が猿の役で、ただ単に相手の人間を馬鹿にするだけの内容だったが、「おたんちん!」といった罵声の連続が7才児には面白かったらしく、大いに受けた。人形と、一本の木の舞台装置は、会の直前に1時間(だったろう)与えられた自由時間にボール紙で作った。ただ、受けたには受けたのだが、なぜか僕は、次回からはきちんと準備をしよう、と考えた。翌月からは、仲間を集め、事前に我が家で稽古をしてペープサートを披露するようになった。
 幼稚園や近所の公園で行われた「こども会」で見た人形劇が、僕にとって初めての表現手段となったわけだ。そのころピアノや絵も習ったが、それよりも、見よう見真似の人形劇のほうが直接に自己表現に結びついた。そして「機会均等」といった観念的な縛りの無い、やりたいと言えばいつもやらせてもらえた環境が、僕を育ててくれた。
 その後杉並区に引っ越した僕は、中学で山の手の進学校に進んだ。そこには「出る杭は打たれる」ような雰囲気と、インテリの内向があった。僕はここの6年間で「世界からの疎外」を身をもって知った。近代そのものの苦渋が満ちる学校だった。人前に身体をさらすことが火の出るほどに恥ずかしい、激しい行為であることを知り……しかし世界とつながるにはまさにそこに飛び込み大逆転を狙うしかない、と感じた。
 だが、そんな裏返しの決意の背後には、あの万事いいかげんな小学校時代に得た、「人は人を許す」という確信が潜んでいたのかもしれないと、いま、ふと思うのだ。
【初出】「演劇と教育」晩成書房 2002年1+2月号
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