宮 城 聰 
ノーマンズ・ランド
 ジェシー・ノーマンは、「人間の可能性」というものを信じさせてくれる。ノーマンのライブを聴いていると、人間は捨てたもんじゃない、人間は生きていてもいいんだ、と思えてくる。
 芸術がもしも見るものにそんなことを感じさせられるならどんなにいいだろうと、ノーマンを知る前に僕は思っていた。だが、そんなことは夢にすぎないとも思っていた。まさか実際には、そんな奇蹟のような表現行為は存在しないのだろうとあきらめていた。
 だからノーマンの初来日公演を見たときは、「こんなことが本当に起こりうるのだ!」と、奇蹟を目の当たりにしたような大嵐が僕の中で吹き荒れた。敢えて言えば、宗教的恍惚を、しかもきわめてクールな理性の中で、会場の聴衆全員が共有した体験だった。
 ノーマンは僕にとってそういう特別な存在だ。だから、ある意味では、あんまり人に宣伝したくないとも思う。ノーマンを生で聴いたひとが、普通の一流オペラ歌手のリサイタルと同列で論評するようなことばを発するのは、ぼくには我慢できないからだ。そういうひとにはそもそもノーマンを聴いて欲しくないと思ってしまう。グルベローバやバルトリや、あるいはもっと若くて達者な歌手を聴いてくださればいい。
 僕自身も、ノーマンを決して「消費」しないよう、気をつけている。1度の来日公演では、1ステージしか見に行かないことにしている。つまり2年に1回見るくらいのペースを守っている。以前NYに行ったとき、偶然僕がオフの日にノーマンのリサイタルがカーネギーホールで開かれていた。しかし日本で聴いてからまだ数カ月しか経っていなかったので、僕は我慢した。特別なものとの距離をきちんと保つこと。がっつかないこと。畏敬の念、ということばがあるが、いま人間に一番必要なのはそれではないかと僕は考えている。
 テレビというメディアが人間から畏敬の念を奪ってしまった。それで人間の傲慢に歯止めがかからなくなり、同時に「おれたちはしょうもない存在だ」という諦念も蔓延した。人間の傲慢と諦念はワンセットになっている。だから「しょうもなくない」人を目の当たりにすることが、逆に、みずからの傲慢から脱却できる道なのだ。けれど「しょうもなくない」はずの人も、テレビに出たとたんに、「しょうもない人の一種」になりさがってしまう。われわれはテレビで見る人に「畏敬の念」を抱くことはできないからだ。たとえ「偉いねぇ」「立派な人だねぇ」と思ったとしても、それは「畏れ」を伴っていない感情なのだ。人が「畏れ」をとり戻さない限り、地球は破壊され続け、生きることの喜びはいよいよ遠ざかってゆくだろう。
 ノーマンの初来日からすでに17年。前回の来日ではノーマンがテレビに出ていた。チケットセールスのためだろう。資本主義社会の現実はキビシイ。だがコンサートでは、彼女はまた僕に伝えてくれたのだった。「人間は、生きていてもいいんだ」と。
【初出】イープラスウェブサイト〈クラシック手帖・音葉〉 2002年9月
    http://eee.eplus.co.jp/otoha/picks/8_002.html
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