大宮勘一郎氏レクチャー(抜粋)

去る五月一七日、BankART1929ホールにて大宮勘一郎氏による公開レクチャーが行われました。
大宮先生は慶應義塾大学の助教授であり、近現代ドイツ文学・ドイツ思想を専攻されています。今回は、月刊「未来」二〇〇四年三月号(未來社)に掲載された文章「アンティゴネー・マシーン」に基づき、宮城聰との対談形式でレクチャーをしていただきました。
3時間近くに及ぶレクチャー、俳優・スタッフ一同大いに刺激を受けました。今回のプレビュー公演では観客の皆様に、こうした「作る過程」に立ち会っている感覚を楽しんでいただければと願っております。

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宮城  本日はありがとうございます。私たちは4月の台本稽古に入る前の話し合いの段階で、先生が未来に発表された『アンティゴネー・マシーン』を読ませていただきました。ギリシャ悲劇を上演する場合、その構造、つまり骨太な見取り図をどうするかということが非常に重要になります。でなければパーツが演劇的に充実していても勝ち目は無いのです。『アンティゴネー・マシーン』では、「死の欲動」という言葉に始まるコンモスの部分の解釈になるほどと思わせるものがありました。
  はじめ、強力な意志を持っていると思われるアンティゴネが(エレクトラだとそれは、一貫しています。一貫しているだけに、なんで自分で復讐しないのかという不思議は残りますが・・・。)コンモスの部分で突然、一見弱々しいあるいはメソメソとした発言をしていて、演劇としてみると本として読むのとはまた異なり、そこが上演する際のネックとなります。剛直な女のままあのようなセリフを言う、という方法も考えられるがそれではなぜ原作にあの部分があるのかがわからない。一方で、別の人格が突然湧き出たとしたところで(このような、前半と後半が全く別の作品のような上演がたまにありますが)、それでは演劇的に弱いものになりかねない。その部分について考えていた時、「死の欲動」という解釈に出会ったのです。「死の欲動」というものを考えた時、あの部分こそがテーバイの国家理性を狂わせ破滅をもたらすのだとすると、納得が行く。そういう訳で、本日は是非そのことについて詳しく伺ってみたいと思い、お呼びしました。加えて、ポリュネイケースとアンティゴネの関係(なぜアンティゴネはポリュネイケースにそれほどまで執着するのか)、ハイモーンとは何者か(この演劇の中での役割、そしてこの人物はどういう背景を背負っているのか)、ということについても伺いたいと思っています。
 まず御聞きしたいのですが、なぜこの作品のタイトルは『クレオーン』ではなく『アンティゴネ』なのでしょうか。タイトルロールになるような人物とならない人物は、何が違うのでしょうか。
大宮先生
(以下大宮)
 ギリシャ悲劇においては主人公という存在は、破滅するものです。そして、その破滅により新たな秩序、倫理などが生まれるということにおいて、主人公は主人公となるのです。『アンティゴネ』の中でも、クレオーンは王ということもあり、時にはこれはクレオーンの悲劇だという解釈も出ていたようです。ただし、主人公の破滅はそこが終わりなのではなく、そこから何かが生まれうるものでなくてはなりません。となると、アンティゴネを主人公と位置づけるのはもっともなことではないでしょうか。
宮城  こういった悲劇というのは、当時のギリシャの社会において、どのような意味や位置づけがなされていたのでしょうか。
大宮  そうした新たな倫理や秩序の誕生、あるいはそこから何かを構築するということは、当時のアテナイの市民にとってはデモクラシーだったのではないでしょうか。アテナイの市民にとってのデモクラシーをそのまま、私たちが取り戻す、または生み出すというように考える必要は無いわけですが。
 クレオーンは他者に対し、二者択一の原理を体現するものです。アンティゴネは、二者択一、あるいは選択を拒否するものです。そこにデモクラシーのより合理的で理想的な形を見るのは難しいことではありません。あらかじめの選択ではなく、選択以前の話し合いには「皆」が参加すべしという主張、それを考えても、アンティゴネがあたかも血縁や家族の掟だけを体現しているような見方は正しくないのです。
宮城  『アンティゴネ』を読む時にはしばしば、ポリス対オイコスとか国の法対家族の法という、それ自体二者択一で見るような見方がありますが、それはおかしいということですね。
大宮  そうですね。アンティゴネが二人の兄の扱いに差を設けないことを主張するとき、クレオーンと比べどちらがより高度で民主的な制度を立ち上げるか。敵の下に奔った者は排除すべきとするクレオーンの正義(テーバイの生者の間だけでの正義を求めるもの。そこに、限定的な正義や社会の秩序は成り立つかもしれない)と、敵として倒れた者にも権利を与えるべきとするアンティゴネの間の秩序。アンティゴネの掟はより複雑で高次の秩序を求めているのだと捉えることが出来ると思います。
宮城  我々にとっても当時のアテナイの市民にとっても、しばしば政治をわかりやすくしようという動きが(備え有れば憂い無し、というような)あるが、そのことに対する戒めがあったということでしょうか。
大宮  そういったことが歴史的にあったかということについてはお答えすることはできませんが、わかりやすくすることの危険というのは常にあったでしょう。そしてその危険に対し、どちらがより抵抗力のある秩序をもたらすかということにおいても、それはクレオーンではなくアンティゴネであると言えると思います。
宮城  その点においても現在の世界状況の中で、アンティゴネ的な定義というものが有効であったりするのですね。
大宮  ある意味ではそれは言えるでしょう。ただ、アンティゴネは現行の法・規範に対する逸脱者として立ち現われざるをえません。現行の秩序より高度な思想・理想を求めた結果、現行の法を犯してしまうわけです。確信を持って現行の秩序の外に出た者、語の本来の意味での確信犯を、現行の法秩序で裁けるのかという問題が立てられたことがあります。
ある理想が共有される限りにおいて、その理想の名の下で法を犯すということが、単なる犯罪とは見えなくなることがあります。ただそれを今の中東の秩序の無さの中に認めることが出来るかといえば、それはちょっと言い淀まざるをえないですが。
宮城  次に「死の欲動」について伺いたいと思います。「オイディプスとその子供たちは、相互の関係の安定を過度に希求し、そのためにむしろ周囲に対して『不安定の産出』を繰り返す兄弟姉妹であり、この産出作用によって一つの機構をなしている。死とはこの機構そのものが純粋に露呈する様態の別名であり、そこではこの機構は、存命のための抑制をむしろ解かれて作動する。いわゆる『死の欲動』において、死とは欲動の対象ではなく、欲動を顕在化せしめる主体なのである。」とあります。ここをもう少し砕いてお話いただけますか。
大宮  「安定を過度に求める」のは、もともと不安定な系譜の中に投げ込まれてしまっているからです。系譜の上において二重の、つまり引き裂かれた不安定な状態に居るのです。その不安定さゆえに「安定を過度に求める」という言い方をしました。不安定なもの同士がいかにその不安定さを解消するかということを、オイディプスの子供たちは求め続けたわけです。その一つの帰結がポリュネイケースとエテオクレースの敵対・相打ちであるし、その後のアンティゴネの無差別の埋葬に対する要求であります。互いを敵とし、しかし互いに兄弟である、その不安定をなんとか解消しようとする努力です。ただ、安定を求めれば求めるほど周りには混乱や不安定を誘発してしまう。アルゴスとテーバイの戦いだって、ポリュネイケースとエテオクレースのけんか別れが無ければ起きずに済んだわけですし、アンティゴネが仮にポリュネイケースの埋葬を諦めたとすれば、少なくともこういう形での不安定・混乱というものはテーバイには起こらなかったかもしれない、あるいは別の形で起こったかもしれない。これは、王の系譜の人々のことですから、そもそも、こうでなかったらという話は成り立たないわけです。ですから安定を求めるがために王国全体が不安定に陥るというのはある意味では必然なのですが、少なくとも共同体全体が巻き込まれる不安定の原因は明らかに、彼らの中に在ります。そして、それが「死の欲動」とどう繋がるかということですが、これはフロイトの「快楽原則の彼岸」の中で初めて使われた言葉です。有機的なものが無機的なものへ戻っていこうとする欲動です。生命の律動から動き無き状態、つまり安定と静止へと立ち戻っていこうとするものとして定義されたものです。その欲動を、生きている人間が繰り返し症状としてあらわしてしまう。ここでいう「死」とは比喩的に考えたほうが解かりやすいのですが、つまりある人間が主体的に死のほうに向かっていくのではなく、避けがたく抗しがたくそちらの方へ行動してしまうのです。そこで死の欲動を示してしまう人間とは主体ではありえません。自己決定的で自立した主体ではない。「死の欲動」を示す人間を掻き立てているものこそ「死の欲動」であり、そこでの「死の」というのはその欲動の要因・原因と捉えた方がいいのではないか、と考えたのです。つまり、「drive of death」において、driveとdeathは等価なもの、或いは同一のものということです。オイディプスの子供たちをそれに駆られているものとした場合そこから見えてくるものは無いだろうかという風に考えたわけです。オイディプスの死が更に次の出来事を生み出す動因となっていく、すなわち誰かの死によって初めて次の出来事が動き出す、オイディプスが生きている間には起きなかったことが彼の死によって新たに動き出します。同じことがポリュネイケースとエテオクレースの死においても言えます。そこにおいて純粋に、「死の欲動」というものが露呈するのだとよみました。
宮城  アンティゴネのコンモスの部分に関し「私を見て――アンティゴネの哀歌はこう始まる。ラカンは石の塚へと向かう彼女の姿に輝かしい「可視化された欲動」を認め、これがコロスの理性、とはつまり国家テーバイの理性を眩ませ完全にくるわせてしまうのだ、という。アンティゴネは言説代表ではなく欲動の形象、すなわち死の欲動の形象である。悲劇がその周囲を経巡る中心たる「アテー」とは、快楽原則の彼岸において実現されるものであり、これに駆られて彼岸へと越境する存在のもたらす眩感が「カロン(美)」の本質である――ラカンはこのように「美」をいわば「存在の囮」として位置づける。」とあります。
まずここでは、「アテー」に駆られて彼岸へと越境する存在、アンティゴネとはイコール「死の欲動」の形象といえるわけですか。
大宮  ええ。「アテー」に駆られて越境する存在が死へと向かう直前に見せる輝かしさということになります。
宮城  その「死の欲動」が『アンティゴネ』において何かということを考えた場合、快楽原則の彼岸において実現されている動力・トルクに駆られて越境していくものと言われているのだと思いますが、まず、「死の欲動」が快楽原則の彼岸において実現されるのだというのは、本当にそうなのでしょうか、そうだとしたら素晴らしいが・・・。快楽原則の彼岸において実現されるというのはつまりはどういうことなのでしょうか。
大宮  その場合快楽原則というのは、少なくとも自分自身の生存を前提とした上で、ある枠内で享楽を経験することです。性行為にしても食事にしても、日常的には生存というものが前提となっていて、存命が保障された上で体験できる快楽です。ただ、快楽原則というのはあらかじめ与えられた枠組みであって、その枠組み自体を疑う或いは信じられなくなった途端に自分の存命・生存というものをもはや顧慮しないような欲動の発揮がありえるということですね。
宮城  私たちがかつて上演した『エレクトラ』はホフマンスタールのものを使っていたのですが、その中には「馬たちが死にたいと嘶いて死んでいく」という表現があります。そうしますと、死というものを快楽原則の範疇内で捉えることが出来るような気がするのです。
大宮  快楽原則はフロイトに忠実に考えた場合、生存の枠組みを超えない所でゆるされた快楽であって、そこから超えようとする欲動というのはその枠を取り払ったところにあります。「死にたい」というのが本当に死にたいのであれば、つまり「死にたい」の「たい」を「死」がとらえてしまったならば、そこですでに最初の快楽原則の枠組みは超えているのではないでしょうか。
宮城  なるほど。すると、例えば性行為が一つの死のメタファーとして、死にたいからやっているのだとすればそれはすでに快楽原則からはずれているということになるのでしょうか。
大宮  快・不快というものを二極的に考えるわけにはいきません。快の逆に不快があるわけではなく、快と不快はどこかまで足並みをそろえていき、ある所から不快だけが先へ行ってしまう。そこで快は止まる、しかしそこで止まるのはその先生きていくのに必要なことなのでしょう。快と不快がどこまでも手を携えて進んでいくとき、初めて両者の間の区別が撤廃されます。
宮城  子供の頃に遊園地のコーヒーカップに乗って不必要に回しすぎる、絶対に気持ち悪くなるのに回し続けてしまう、という経験は誰でもありますよね。
大宮  自分自身にゆるされた快というものがここまでなのだ、ということがまだ規範として定着していないのかもしれませんね。
宮城  そうすると、ここでいう快楽原則の彼岸において実現されるものというのは、生存という枠組みを取り払った欲動・トルクによって駆り立てられる者がいて、一般の人にはそれが美というものに見えてしまうということなのでしょうか。
大宮  必ずしもそうとは限らないかもしれませんが、アンティゴネがそこでさらけ出している姿は明らかに美です。
宮城  「不安定の産出」と結びつけて考えると、周りを不安定にしていこうという欲動を王が立法という生の術策によって抑えようとすれば、むしろ「死の欲動」を挑発してしまう、つまり生を秩序化しようとする圧力が人間に加わってきた時、それへのカウンターとして「死の欲動」或いは生存という枠を超えたトルクが出現し、それが例えば死というものの顕在化に見えるということでしょうか。もし生を秩序化しようとする抑圧が無ければアンティゴネの中で飼いならされ死ぬまでそのままいったかもしれないものが、その圧力が強力に加わったことによって噴出してしまったのだ、といえますか。
大宮  ここの文脈ではそう考えていいと思います。生の術策(クレオーンの立法行為)がある人間にゆるされた領域を超えて広がろうとすると、そこに立法者の逸脱の影のようなかたちで必ず姿を現すのがアンティゴネです。あるいはアンティゴネによって体現されるような「死の欲動」なのです。
宮城  アンティゴネに限らず、人間の中には生の秩序がありそれに抗って何か周囲を不安定に陥れようとするような欲動のようなものを持っているような気がします。そして、演劇というのはそういうものなのではとも思えるのです
大宮  そうだと思います。生の秩序化というのは、それによって単なる安定というものが停滞・安心に変わることがあり、安心というのは退屈と表裏を成すものです。演劇やその他の芸術には、それを逸早く捉えて表現する力が備わっていると思います。それが、芸術作品一般の生存権でもあるのかもしれません。
宮城  その表れというのは、芸術であれば、周囲を不安定なものに巻き込んでいく力を発揮していくことです。そして、不安定の産出を繰り返す様態の別名として死というものがあるということでしょうか。
大宮  その機構として死というものがあるということです。
宮城  死というものを共同体或いは国家理性につきつけることによって、国家理性が安住している生の術策が動揺するということはいえるのでしょうか。
大宮  そうでしょう。ただ、アンティゴネもまた生の領域から死の領域へ越境する時に、輝かしい姿を見せるわけですから、生の領域ぎりぎりの所に立ち現われるものでなければなりませんが。
宮城  自殺者も「快楽原則の彼岸」へ赴くものと捉えることが出来るのでしょうか。
大宮  自殺者にも色々な形があると思いますが、個々の自殺者が受け止め苦しんでいる生の術策というのは極めて個人的なものではないでしょうか。アンティゴネは、王に刃向かうという極めて公的な存在ですので、必ずしも同列に扱えるものではないと思いますが、そういう形で何かが表現されたのだと受け止める必要はあるでしょう。
宮城  表現者自体が病気、表現自体が症状であり逸脱であるとする考えもあると思います。アンティゴネの場合は共同体に働きかけますが、表現者の場合、憲法を変えろといって表現をすることもあまり無いし、ある意味では生の術策は非常に個人的な部分まで下りてきているともいえます。
大宮  生の術策も複雑で多岐に渡ります。近代化・合理化された国々では、生の術策の余白が幅広く与えられていて、大概のことはその中で許されている。直接に立法者の意思と相見えなければならない状況はまれになっていると思います。極端な所では反政府運動やゲリラなどがあるかもしれませんが。
宮城  生の術策という言葉を自明のように使ってしまいましたが、この言葉をもう一度説明していただけますか。イスメーネーは生の術策の側に踏み止まるものだという表現もありますが。
大宮  ここで「生の術策」というのは、生き死にの問題になるところで登場するもののことです。ある共同体の人がその秩序から零れ落ちざるをえないような地点においてようやく発動するような術策です。イスメーネーが「なんともしがたいこと」とアンティゴネに言いますが、それはぎりぎりのところ、決断の場において吐かれたものなのです。もう一つ、コロスの中で使われている「術策によってはかなわぬ」というのは死のこと或いは死と病の関係について言われています。それは、日常生活からは非常に例外的な場所に辿り着いてしまったところで講じられる術策で、ぎりぎりのところでそこに踏み止まるか、それともそれを越えてしまうのか、それに対しそこでせめぎ合うのが「死の欲動」ということになるのではないでしょうか。
宮城  立法が生の術策であるというのはどういうことでしょうか。
大宮  具体的にはクレオーンによる、国家の敵であるポリュネイケースの埋葬を禁じるという禁令のことを言っています。ただ、立法はそもそも、主権者が主権を行使する行為そのものです。立法行為というのは実存的な事柄に関わるものなのです。つまり、ある共同体の生き死にに関わるのです。
宮城  先ほどおっしゃっていた生の術策の余白、先進国ではそれが大きいというのは、生き死にに関係の無いものがものすごく多いということですか。
大宮  この生き死にとは政治的な領域に関わることで、単なる生存のことではなく公的な存在として立ちうるか、ということです。今はあまりそういうことは意識されなくなったかもしれません。プライベートではなく、もっとパブリックな場面における事柄です。
宮城  公的な存在として立ちうるか、というのはつまりどういうこととお考えですか。公的な存在として立ちうることが問われる瞬間とはどういうことでしょうか。
大宮  今は間接的な民主主義ですから政治的な意思決定というのは投票行為に反映されているわけですが、それ以外にも色々な場面はあるでしょう。例えば、途上国や政治的に不安定な国において、体制が変わるようなことが議論されている所などでは、国家のあり方が自分自身の政治的な意思決定に関わってくることはあります。地域コミュニティーや学校のような共同体の中での議論でも、公的な位置づけというのはありますよね。
宮城  そういうところにおいて、解決として生の術策が講じられると。
大宮  それは、乗るか、反るかというぎりぎりのところでということになりますが。
宮城  実際我々が生きている中で、「生が秩序化される」という言葉には実感があると思います。つまりある種、逸脱を許されない升目みたいなものがあって、そこの余白のところでは色々出来るんだけれども、会社に行くとか子供を学校に行かせるとかそういうところではやはり、生の秩序化という升目があるという実感があると思うんです。そういうこととは別次元で捉えなければならないんでしょうか。
大宮  基本的には次元が違うんではないでしょうか。悲劇における生の秩序化とそれへの抵抗、というのとは別だと思います。ただ、一種のカタストロフィーがどこかで予感されているというのは、近代社会の色々なところにあるとは思いますが。プライヴェートな領域にとことん引き籠もる、という現象が逆に公的な問題として浮上するのは、ある意味些細で、裏返し的な逸脱にすぎない事柄に対してすら皆が神経を尖らせているということを示してもいるわけで。
宮城  秩序化は、法というレベルでも定まっていると思います。話は少しずれますが、我々は法というものにわざわざ縛られます。その法というものは、宗教の世界も政治の世界も、常に男の作るものだったというような感じがします。その法とはレベルの違う神の法というのが、『アンティゴネ』の中には想定されているのでしょうか。
大宮  それはあると思います。男性が作る、というのは人間の手による実定法です。立法者や王というのは大抵の場合男性であったかもしれないですけれども、では、人間が作る法というものの根拠はどこにあるのだということは議論がなされるものです。その根拠として、人が書いた以前の何かを持ち出さざるを得ない。自然法の自然というものの中には母性的なものを読み込む立場もあるわけですが、しかしそれ自体が男女の区別を経た上で、男性的ではないものを女性的と呼んでいます。そこは気をつけなければならないと思います。性別以前の掟というものが、書かれざる掟とされることはあるのではないでしょうか。
宮城  では、アンティゴネの言う「掟」とは、我々が考えるような例えば仏法のようなものではないということですね。
大宮  ええ。違うと思います。私は以前(2001年9月11日よりも以前のことですが)それを、「友愛」と呼んでみたことがあります。アンティゴネの友愛とは、仲間・連帯としての友愛ではなく、共同体の秩序からはどうしてもはみ出してしまう人々へのものです。脱共同体的な友愛です。アンティゴネの言う「誰も知らないほど古い」掟とはまた、誰も知らない遠い未来において実現するかもしれないもの、新しい秩序とも言うことが出来るのではないでしょうか。それが、家族や血縁や系譜、国家共同体にも還元出来ないような、共同体ならざる共同体を目指していると考えました。
宮城  そこにおいてポリュネイケースへのアンティゴネの愛というものが説明されるということでしょうか。ポリュネイケースとエテオクレースを比べると、なぜアンティゴネがそこまでポリュネイケースに傾斜しているのか、不思議な所です。
大宮  ポリュネイケースは、より遠い所に行ってしまい、遠ざかった故に強くアンティゴネを掻き立てたということはあると思います。それはエロス的な関係ではありません。共同体から遠く離れてしまった者に、ひきつけられてしまう、そしてそこに友愛を見出すことが出来るのではないでしょうか。
宮城  その観点からすると、イスメーネーについてはどういうことが言えるのでしょうか。
大宮  イスメーネーは全てわかっている、そしてわかっていながらぎりぎりの所で踏み止まることを是とする側に回るわけです。ところが実際には、アンティゴネが実行に及びそれが露呈するとなると、私も一緒に同じ罪を犯したという言い方をします。ですから、ぎりぎりの所に踏み止まるという術策が結局、イスメーネーに対しては功を奏するということが無く、それを彼女自身もわかっていてアンティゴネと同じ立場に身を置かざるをえない。イスメーネーが一緒に死ぬことはないわけですが、その後どうなったかについても書かれているわけでもありません。ただ、イスメーネーがぎりぎりの所でとどまったが故に、アンティゴネが踏み出した一歩というのが際立つというになるのではないでしょうか。『アンティゴネ』は2の劇、つまりアンティゴネとイスメーネー、アンティゴネとクレオーン、クレオーンとハイモーンなど、二者が出てきてその二者が入れ替わりながら進行していくのです。そこでぎりぎりの拮抗というのがどこにおいても見出されるのです。
宮城  話は最初に戻りますが、クレオーンが埋葬によって差をつけようとしたのは、どういうことなのでしょうか。
大宮  埋葬というのは第二の死、つまり肉体の死だけでなく共同体の名において死者として認知することが行われるということで、葬式とはそういう儀式のことです。ですから、死者を内側の外部として認知するというのが死の儀式であるとすると、それをポリュネイケースに認めるとなると、内側と外側が通底してしまうということになります。ですからそこで差を設けたということではないでしょうか。
宮城  では、そのポリュネイケースの死体をアンティゴネが埋めたということは、どういう行為になるのでしょうか。
大宮  内側と外側の区別を承認しないということです。つまり内側における他者と外側における他者との区別をアンティゴネは拒否するということになるのではないでしょうか。
宮城  共同体が通常行う埋葬とは違う埋葬を、アンティゴネは行うということですね。共同体の埋葬をアンティゴネが肩代わりしたのではない。エテオクレースと同じように弔ったのではなく、共同体の内部の他者と外部における他者を分けることを拒否したということですね。
 埋葬が共同体における第二の死だとすれば、これは余談ですけれども、この間敦煌に行った時、敦煌はオアシスですから人口は少なくて、死ぬと周りの砂漠に埋めるだけ、燃やさないまま3メートルぐらいのところに埋めとくらしいのですが、ただ不思議なのは、一軒の家で一年の内に2人目が死んだ場合は土中に埋めないで地上に棺桶をおいて日よけみたいのを作っておく。それから、結婚していない人間が死んだ場合も同じ扱いになります。一年の内に二人死ぬと冥界への道が混雑してしまうのか、なんて思っていたのですが、今の話を考えてみると、埋葬が共同体における死とすれば一軒の家の2人目の死者や結婚前の死者は共同体の中で他者とも言い切れない人となるわけですね。
大宮  そうかもしれませんね。2人目あるいは未婚の死者が共同体の中では微妙な位置づけをされてしまうのですね。普通の死者として共同体の中で哀悼される存在とも違う存在。死者として共同体に回帰して次の世代へと寄与しえない立場ということになるのでしょうか。暦や世代交代といった時の循環にうまく添い遂げることができない、ということかもしれません。
宮城  先ほど稽古を観ていただいて分かるとおり、コロスが幽霊のような形で表現されているのですけれども、これはいまだに迷っているところです。先ほどのものを観ていると私自身、魂魄この世に留まって死にきれないという人たちに見えます。それはそれでありという気がしますが、当たり前の解釈のような気もします。その当たり前というのが面白いものなのか凡庸なものなのか。死んでしまえば仏、つまり浮かばれていると見なしたほうが、ヨーロッパ特にギリシャの状況には近いのかもしれません。死体が転がっている状況に縁遠い日本人がこれを上演する場合、日本人なら『アンティゴネ』をこんな風によむのか、となるのか。あるいは戦争の翌日だというのに早くも死者たちが仏になっているのか、という方がインパクトがあるのでしょうか。
大宮  確かに、コロスを亡霊として登場させるというのは面白いかもしれないですね。今までいくつかギリシャ悲劇の上演を観てきましたが、コロスの扱いはみんな苦慮しているという感じがします。コロスに飛んだり跳ねたりさせたり、舞台に埋めて顔だけ出させたり。僕の貧しい観劇歴で知っている限りでも色々あります。亡霊として登場させるのも一つの卓見という気がします。ただ、成就した仏様としてとなると、ちょっと靖国神社みたいになってしまうので、やや違和感があります。練習を見せていただく前に興味があったのは、コロスをどう扱うかということと、アンティゴネという基本的に最初から最後まで動かない人をどうするのかということでしたが、今の話を聞いて少し腑に落ちました。
宮城  さて、コロスの「不可思議なる者」「故郷無き者」という言葉があります。人は、生まれてきたことと死ぬことに何の因果律も無い。その不条理を私はあまり受け入れられないのです。子孫をつくるという生殖のサイクルから見ると、人間の一生は長すぎます。子供が外敵から身を守れるくらいになれば親の世代は死を迎えるものなのに、人間の場合はそこから何十年も生き続けなければならない。この時間をどうやって凌ぐのか、何の目的も根拠も無いこの数十年をどうやって行き続けていくのかという時、やはり死というものを考えざるをえないのです。生の根拠の無さを考える時どうしても死を考えざるをえないし、死を考えた時にはやはり不条理です。そしてこの死の因果律の無さに対して、一番分かりやすい反抗は戦争です。敵だから殺した、敵に殺された、と考えることにより死は因果律の中にすっぽりとはまります。根拠の無い所に根拠を作りたくなるのが人間です。しかし演劇の役割は、死というものはあくまで因果律には入らないものであるという根底的な不安を突きつけたじろがせることであり、これが人間の不遜を戒めることにもなるし、人間の限界を思い起こさせることにもなるのではないかと考えています。
大宮  まず、「不可思議なる者」を「故郷無き(ウンハイムリヒ)者」と訳したのは御存知のとおりハイデガーです。故郷の無さ、即ち誕生と死の無根拠さというのは確かにあり、その無根拠さを塞ぐ努力は色々なされています。戦争もその一つでしょう。ただ、大概の社会制度というのは生存と死の無根拠さを払拭するようには出来ています。・・・それを言ってしまったらおしまいというところもありますが。
 無根拠なところで何をするかというと、決断をすればいい、決意をすればいい。その決意だけは自分のものだという考え方があります。それが1920、30年代の思想の一つの潮流にもなったわけですが、それ以前は生の無根拠さというものは神が塞いでくれていて、生はよいものであって死は神の下へ還ることなのだから、しっかり生きて安らかに死ぬがよいということになるのです。それが必ずしも常識ではなくなった時、生の無根拠さというものが決断で塞がれるようになり、その決断というのは死への跳躍や友と敵の決定という形で顕れるわけです。
 たじろがせるということを悲劇の効能とする考え方は、私にとっても示唆的で面白いものです。
宮城  さて、コンモスで「死の欲動」が現前化すること、越境する瞬間に見える美がテーバイの国家理性を狂わせるということを演劇として考えれば、それを演じるのではなくそのことが起こる、つまり俳優が生から死への瞬間を生きる、それによって観客という市民理性が幻惑されるということが起これば、非常に面白いと考えています。では、どういう条件がそろえばそれが起こるかということを考えると、このコンモスのところで逆にどういう条件が調っているのかということをもう一度確認したいのです。
大宮  コンモスにおけるアンティゴネの弱々しさの問題ですが、コンモスの中でアンティゴネが見せる自分自身を嘆くその嘆きというのは、あそこで初めて出てくるわけではありません。ポリュネイケースを葬ったところを番人に取り押えられる時のアンティゴネの様子は、雛を失った親鳥のように甲高い声で嘆き悲しむのですが、これは決定的なシーンなので直接観客の目に晒されるのではなく伝聞の形で伝えられるところです。   
ポリュネイケースに対する哀悼の身振りが自分自身に向けられた所に、コンモスのような嘆きが出る。嘆く側も自分であり嘆かれる側も自分です。ただしこれは、私は可哀想でしょ、というのではなく、一種突き放した形で、私はこういう事情で死んで行くのですということを十分能弁に語ってもいるのです。嘆き、あるいは哀悼が自分自身に差し向けられた時の態度ということです。そしてその態度は、私はこんな目にあって嫌だというものではなく、自分はもう死に行くものとして定まっているのだが、その定まった死をテーバイの皆さんが哀悼してくれないので、私は自分で哀悼します、ということなのではないでしょうか。
 ここで一番気になるセリフというのが例の、「夫や子供だったらこんなことはしないが、兄は取替えがきかないからするのだ」というところです。
宮城  あらかじめ与えられている条件と自分から作った条件に違いが有るというのは理屈としてはよく解かったんですけども。
大宮  ある学者の歴史的な説明によると、「古代のギリシャというのはそういうものだったのだ」というただそれだけのことになるらしいのですが、それに後世の読者が非常に動揺を覚えたというのも確かでその動揺の方を私たちは共有しているのだと思います。その動揺をさらに探っていくと先ほどの話に戻ります。親や子供は血縁で大事にしなければいけないという話とも違うわけです。非常に特殊な親から生まれそして死んでいった兄弟なので、そこには血縁だとか家族だとか、それには収まりきれない繋がりがあるのだ、つまり夫や子供を慈しんだり愛したり、という家族の掟というものには到底、還元できない間柄が最も大事だといわれている、と、こう考えたほうがいいのではないでしょうか。あれはやはり決定的なセリフと取ってよいと思います。アンティゴネ的な別の共同体、共同体ならざる共同体、というものがそこに端的に表現されている、というふうに考えられるのではないでしょうか。それだからこそ、アンティゴネがコンモスで登場する姿には、越境していくものの輝かしさが見えて、第一の観客であるコロス、また観客をも幻惑する、目を眩ます、つまりそこに美が垣間見えるのではないでしょうか。
宮城  そこでのアンティゴネがどういう状況におかれていたのかについて「法的言説が至高の善へと逸脱する際には、法以前的=言説以前的な死の欲動を抑止しようとしてむしろ挑発してしまう」とあります。この部分が現実に俳優によって引き受けられるならば、ここでのアンティゴネと俳優が何か似た存在になりうるかと考えています。「法的言説が至高の善へと逸脱する際には、法以前的=言説以前的な死の欲動を抑止しようとしてむしろ挑発してしまう」、このことについてもう少し説明していただけますか。
大宮  アンティゴネは、王の傍らに現われます。王があることを行う時、その欠損や逸脱が露呈した時にその影として現われるのです。これはどういうことかというと、クレオーンが埋葬禁止の法令を公布した時、埋葬禁止の公布というのはテーバイの領土の外側の存在に対してはその効力が及ばないはずですね。つまり、テーバイ市民ではない人の死を、埋葬しろともするなとも本来は言えない。ところがテーバイの国法であることを越えて埋葬禁止を適応させようとする。そこには法の妥当性を越え、秩序というものはかくあるべきだという一国の王の行いうる権限を越えた何かが行われてしまっているわけです。まさにそこにアンティゴネが登場します。一体何の権限があってあなたはそんな禁止を公布するのか、と。その登場は法を犯すという形で、それが自らを死に追いやると分かっていながら現われました。クレオーンが発布した法がアンティゴネを挑発したことは明らかです。しかも、クレオーンが埋葬禁止の公布に際し処罰まで定めていたということは、すでにその法を犯す存在が現われることを想定していたということです。
 クレオーンの王としての逸脱と、アンティゴネの出現というのは別のものではない。つまり、王の逸脱に対してアンティゴネは常にその傍らに居る、死の欲動は必ず挑発を受ける、ということです。この2つは必ず、共に起こるものです。王の逸脱と死の欲動は必ず対になった出来事として起きるのです。
宮城  ここでのアンティゴネを芸術家とするならば、王の逸脱とは何になるのかを我々は考えなければなりません。王の逸脱とともにアンティゴネが現われるとするならば逆に、アンティゴネが居るならば王の逸脱があるはずだ、と言えるわけです。つまり、ここに芸術家が、表現者が居るならば、王の逸脱というのが起こっているはずです。このことを考えるのが我々の課題であるという気がします。
 最後になりますが、ハイモーンというのはどのように位置づければよいのでしょうか。
大宮  ハイモーンとクレオーンのやり取りの中で明らかになるのは、クレオーンが理性的・合理的な君主から決定的に暴君あるいは専制君主に成り下がったということです。クレオーンはテーバイの統治を任され、最初、コロスの長老たちの意見もしっかり聞いて治めていくから、と理性的・合理的でした。しかし徐々に崩れていくのです。そしてその王としての崩れが決定的に露呈するのが、ハイモーンとのやりとりにおいてです。そこでクレオーンは男対女という紋切り型にしがみつきながら、統治者としての男性の在り方と女性的な女々しさという2つの対立軸を自ら設け、その間を行き来してハイモーンを言い負かそうとする。それに加えハイモーンが、テーバイの人々も陰ではあの法令は間違っているのではと噂していると告げると、そこでそれが本当かどうかは別として、理性的であれば「それが本当かは分からない」という切り返しもあるはずなのに、すでにもうそういうものだという想定しか出来ずにいる。つまり、皆に受け入れられない自分を想定しながら、「俺は王なのだ」「なぜ市民に従わなければならないのか」と言う。そこですでに狂気の独裁者として凋落が決定的になる。
 ハイモーンは、王としての資質を一つ一つ疑い、その疑いを根拠づけていくという役目を持っています。そして、ハイモーンとクレオーンのやり取りの中で、クレオーンに王としての資質が無いのだということが明らかになるのです。そういう意味でハイモーンは、クレオーンの崩壊を決定づけるという役割を果たしているのだと思います。
宮城  なぜクレオーンはハイモーンの言うことを疑わず、女の下僕になりおってというようなことを言い、そんな単純な紋切り型にくっついてしまうのでしょうか。
大宮  クレオーンはその時点で相当な打撃を受けています。その打撃はアンティゴネとクレオーンの対話から来ているのでしょう。アンティゴネはクレオーンに死刑を告げられますが、その前のやりとりにおいてクレオーンは窮地に追い込まれています。自分のよって立つ、自分の立法の根拠というものが、アンティゴネによって論駁された、あるいは論駁された可能性があると知っているということです。
宮城  そこでもう一度、自分に対し謙虚になるということがあれば、共同体にとってクレオーンはよき王と認定されたかもしれないが、ハイモーンがそこにリトマス紙のように登場したということですね。
大宮  コロスが、ポリュネイケースが埋葬されたという知らせを持って来た時、「これは神の仕業かもしれない」と口走ります。これをクレオーンは言下に否定しますが、この一言はわりあい大きな打撃となったかもしれません。自分が構築しようとする秩序への確信を、クレオーンは徐々に崩されてゆきます。それにつれて自分が強がっていくわけですが、その時に持ち出す根拠というのが、女は女々しいというような他愛も無い話であるわけです。クレオーンの破滅は少しずつ始まっているのです。
宮城 なるほど。・・・時間が無くなりましたので今日はこれで終わりということになります。どうもありがとうございました。
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