母親から男の子が産まれたとき、父親とその子は母親を奪い合うライバルとなる。
という現象は、古典古代のギリシアでも今日の日本でも等しくみられる事態なのでしょう。ただ父親の権威が強大な社会ではこの三角関係は「息子から父親へ向けての対抗意識」として顕在化し、「父殺し」の潜在的衝動=オイディプスコンプレックス、として表現される。一方いまの日本ではその逆で、息子が産まれたとたんに女房が亭主をかえりみなくなる、つまり女にとって息子が第一の恋人になる、というほうが一般
的でしょう。ここで「捨てられた」亭主が、男女の争いにおいては敗者となってもその代わりに別
の高い地位=「お父さんは偉いんだ」を家庭内で与えられるか否か、が男にとっての分かれ目で、・・・まぁ言うまでもなくそんな地位
を与えられない多くのサラリーマンの怨念が今の日本社会の退廃を招いている。
しかしいずれにせよ人間の母親は(種としての本能が壊れていない限り)息子が産まれればそっちのほうが大事になる、という宿命を持っています。息子の立場で言い換えれば、「父親から最愛の女を奪う」宿命を持っている。ここが避けがたい「罪」の芽がある、と考えるところから「オイディプス王」の物語が始まります。種が生き延びていく、という「上から与えられた」目的のもとに恩人を傷つけていく。競争に勝つために身近な者を倒す−。産まれて間もなくに犯すこの罪に始まり、人は様々な罪を重ねながら・・・しかしその罪を意識の表層から掻き消しながら生きていく。暴き出されいくオイディプスの罪は、われわれ誰しもの中に隠されている罪の象徴です。
オイディプス王というと、どうしても「マッチョな奴」というイメージがあります。ギリシア彫刻の筋骨隆々な男たちのように。しかしあくまでそれは「戦の先頭に立つ、騎士の頂点としてのヨーロッパの王」のイメージであって、東洋には宗教的権威によって民衆から崇められる王もいます。少なくとも日本では武力で頂点に立った者を民衆が心から崇拝するということはなかったように思います。ク・ナウカが『オイディプス』と取り組むに当たっては、まず何より日本の劇団として、東洋人ならでは思いつかない「偉大な王」のイメージを提出できるか否かが問われるでしょう。民衆の信望を集める冒頭のオイディプスの造形が、まずは勝負です。
その偉大な王が、「罪」を暴き出されていくなかでみるみる等身大に収縮する。次の問題は、この「誰の中にもある罪」を背負わされた矮小なオイディプスが、いかに救いを得るか、にあります。ここが示せないと、「結局人間というものは悲惨な存在だ」という「いまさら」な後味しか残らないからです。(この時代、人間がいかに駄
目な存在かを観客に突きつけたところで何になるでしょう?)
もしオイディプスに救済が訪れるなら、それはすなわち、人間というものに「今の自分」を超えられる可能性が開かれている、ということです。僕は今回、その救済のきっかけを「母性に見いだしているわけですが−この強引な解決については是非みなさんの感想を伺ってみたいと思っています。」
(公演パンフレットより)
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