<トリスタンとイゾルデ>
作曲の直前、稽古を見学するために初めて足を運んだ時の驚きを忘れない。それは、ワーグナーのオペラとして名高いこの作品が、新しく、ク・ナウカによる演劇作品に生まれ変わろうとしている葛藤を目の当たりにしたからだった。
いわゆる西洋芸術的な意味での楽音を、自らの作曲の柱としている私にとって、俳優たちがその声によって、何か<音楽的な舞台空間>を目指していた。その創作過程出会うことに衝撃を覚えたのだ。それは極めて原始的な光景であり、しかし紛れもなく、音楽に最も必要なものが既に息づいており、私が作曲の指針を決めた瞬間であった。
語りと動きが別々に設定され、その一体感や剥離感によって観客の集中を促すク・ナウカの演劇に、音というもうひとつの軸を与え、その軸が縦横自在な遠近感覚をプラスすることによって、俳優のみならず、観客のイマジネーションを、リアルタイムで刺激するようなアプローチを試みた。具体的に言えば、いわゆる効果的なBGM性は意識的に排除され、ある時は空間の距離感を、またある時は俳優の内的緊張感と一体化する音を想像した。初演時には全て生演奏によって、音の方向性にも注目して楽器を配置した。
私は<訓練によってこそ実現できる、身体的表現の必然性に満ちた存在力>を、ク・ナウカとの仕事によって再認識した。俳優にとって、それは恐らく声と身体そのものであり、演奏家にとっては楽器である(楽器は、優れた演奏家にとっては身体の一部と同じである)。それぞれの方法で訓練されてきた身体的表現をコントロールする、表現者自身の意識が、舞台空間に与えられたそれぞれの場で拮抗し、様々な遠近法を生み出す・・・そんなことを願って作曲に取り組んだ。ワーグナーのオペラとは全く異なるアプローチによる音は、ク・ナウカの俳優と絶妙なバランスで共存する。今回の上演は、諸般の事情により一部録音された音を使用するが、音楽は初演時と同じである。
(原田敬子・作曲家 2003年12月 記) |