Ku Na'uka Theatre Company

・・・ 本公演は終了いたしました。 ・・・
ご来場ありがとうございました。
『トリスタンとイゾルデ』
Tristan und Isolde
作 : リヒャルト・ワーグナー
台本・演出 : 宮城 聰
作曲 : 原田敬子

2006年7月24日(月)〜30日(日)
東京国立博物館 庭園 特設舞台
(野外公演)

人生の一日、
人生の一夜  
・・・   
a day in the life
the night in a life

 ク・ナウカの『トリスタンとイゾルデ』は、10年の構想期間を経て2001年10月に青山円形劇場で初演されました。芥川作曲賞を受賞した気鋭の作曲家・原田敬子が全編の音楽を書き下ろし、ワーグナーのリブレット(台本)がワーグナーの音楽から解き放たれ新たな生命を獲得した、と各界から高い評価を得ました。
その後、静岡でのリニューアルを経て2004年1月にパリで上演。原作におけるイングランド・アイルランド・ブルターニュを日本・琉球・北海道を思わせるヴィジュアルに移植し、終幕で9・11以後の世界に対する切ない希望へと昇華させてゆく演出は、パリの観客の絶賛を浴びました。
 東京では初演以降見る機会のなかったク・ナウカの代表作のひとつを、おそらくはもっともふさわしいシチュエーションである東京国立博物館日本庭園池畔にて、いっそうの洗練とともに披露いたします。

美加理、阿部一徳、吉植荘一郎、大高浩一、中村優子、
本多麻紀、大内米治、片岡佐知子、諏訪智美、鈴木陽代、加藤幸夫、桜内結う、

池田真紀子、石川正義、塩谷典義、司田由幸、山縣昌雄、森山冬子

作: リヒャルト・ワーグナー
台本・演出: 宮城聰
作曲: 原田敬子
演奏: 稲垣聡(pf) 中川賢一(pf) 加藤訓子(perc) 山田百子(vn)
録音: コジマ録音
演奏助手: 田中やよい
照明: 大迫浩二
舞台設計: 田中友章
美術原案: 木津潤平
衣裳: 高橋佳代
音響: AZTEC(水村良・千田友美恵)
ヘアメイク: 梶田京子
舞台監督: 岩崎健一郎
宣伝美術: 野口美奈子
宣伝写真: PASCAL LAFAY
WEBデザイン: 井上竜介
制作: 大石多佳子

2006年7月24日(月)〜30日(日)

開場は開演の15分前
(整理番号順にお並びいただき、開演15分前より会場にご入場いただきます)
受付開始は開演の1時間前
上演時間約110分(途中休憩10分)
東京国立博物館 庭園 特設舞台
※野外公演(雨天決行。雨天の場合は簡易カッパをお貸しします)
ク・ナウカ  03-3779-7653

主催  特定非営利活動法人 ク・ナウカ シアターカンパニー
共催  独立行政法人 国立博物館 東京国立博物館
   
  平成18年度文化庁芸術創造活動重点支援事業
<演出ノート>
かなしか郎と磯留手
宮城 聰
僕にとって、長らく『トリスタンとイゾルデ』はいちばん好きなオペラでしたが、しかし不思議なことに、そのどこがどうおもしろいのかはさっぱりわかりませんでした。それが明瞭になってきたのは、ワーグナーと三島由紀夫のイメージが重なるようになってからです。故郷を捨てて異国の王マルケに忠実無比に仕え、しかしさらに異国の女イゾルデに会ってからはマルケ王を裏切ることとなるトリスタン。しかもイゾルデとは、結局現世では結ばれることなく死んでいったトリスタン。どこにも「所属」できなかったこの男が、三島由紀夫本人と重なってきたとき、やっと僕はこの話を掴まえることが出来たと感じたのです。トリスタン、という名には「トリスト(悲しみ)」が含まれています。もしこのヨーロッパ中世の伝説が日本の昔話となっていたら、主人公は「かなしか郎」という名前になるのでしょうか。
 トリスタンは騎士道(軍隊)というホモソーシャルな世界に身を投じた男です。マルケ王を「親父」とする男だけの愛情共同体です。そこにイゾルデという「異物(=他者)」が現れたとき、マルケ、トリスタン、メロート、クルヴェナルたちがそれまで築き上げ守りつづけた幻想の共同体は大きく動揺します。・・・いや、現実には少しも動揺せず、男による世界支配は堅固なままかもしれません。しかし作品には、「動揺せよ」「崩壊せよ」というワーグナーの思いが込められています。「昼の世界を追い払い、永遠に夜を続かしめる」こと。この世界を夜で覆い尽くすこと。まさにワーグナーが抱いた思想は「原理主義」であり、この作品は革命へのアジテーションです。「エロス原理主義革命」。
 しかしワーグナーも三島と同じく、その革命を現実の中で相対化してしまう理性を持っています。だから見ようによってはこれは滑稽な道化芝居、負け犬の逃避行です。それでもワーグナーが三島と違ったのは、彼が19世紀の住人で、「恋愛至上主義」を信じる土壌・風潮が世間にあったという点でしょう。ワーグナーが「笑えるオヤジ」に転落せずに済んだのはもっぱらそのせいなんじゃないかと思えます。現実との闘いに敗れ、いやそれどころか現実を否定することさえ出来ずにぶざまに逃げていくトリスタンも、「恋愛に殉じた」という(当時は大衆的に有効だった)包装紙をまとうことで、なんとかサマになったということです。
 今回僕が『トリスタンとイゾルデ』を取り上げるにあたっては、ふたつの前提があります。ひとつは、この(ワーグナーが書いた)台本を、ワーグナー自身の音楽から解き放つこと。もう一つは、この台本を「恋愛至上主義」から解き放つことです。ある学者が言ったように、「近代」のエッセンスは「恋愛至上主義と社会進歩史観」だとすると、われわれは『トリスタンとイゾルデ』を、「近代」という檻から解放しようともくろんでいるのです。
 恋愛至上主義、というのは、「わたしはわたしであり、ほかの誰でもない」という考えの上に成り立ちます。ほかの誰でもないわたしが、ほかの誰でもないあなたを好きになった。つまり「個人」の「唯一無二性」の精華が恋愛である、という考え方。でも、「ほかのひとではだめ、あなたでなくてはダメ」と選びあった恋人は、やがてセックスという、あらゆる生物がみなひとしなみにおこなっている、最もありふれた行為をすることになります。一組の恋人がセックスをしているその同じ瞬間に、世界中で何万人、何千万人もが、ほとんど同じ行為をしているのです。
 むしろこの、全然「唯一無二でない」ところ、に、生命体としての祝福を見い出したい、というのが今回の『トリスタンとイゾルデ』の眼目になっています。性愛を刹那のよろこびではなく永遠の快楽(けらく)につなげようとしたこの台本の思想が、こうして19世紀という限界を超えて生き延びていく。それを僕は願っています。

<トリスタンとイゾルデ>
作曲の直前、稽古を見学するために初めて足を運んだ時の驚きを忘れない。それは、ワーグナーのオペラとして名高いこの作品が、新しく、ク・ナウカによる演劇作品に生まれ変わろうとしている葛藤を目の当たりにしたからだった。

いわゆる西洋芸術的な意味での楽音を、自らの作曲の柱としている私にとって、俳優たちがその声によって、何か<音楽的な舞台空間>を目指していた。その創作過程出会うことに衝撃を覚えたのだ。それは極めて原始的な光景であり、しかし紛れもなく、音楽に最も必要なものが既に息づいており、私が作曲の指針を決めた瞬間であった。

語りと動きが別々に設定され、その一体感や剥離感によって観客の集中を促すク・ナウカの演劇に、音というもうひとつの軸を与え、その軸が縦横自在な遠近感覚をプラスすることによって、俳優のみならず、観客のイマジネーションを、リアルタイムで刺激するようなアプローチを試みた。具体的に言えば、いわゆる効果的なBGM性は意識的に排除され、ある時は空間の距離感を、またある時は俳優の内的緊張感と一体化する音を想像した。初演時には全て生演奏によって、音の方向性にも注目して楽器を配置した。

私は<訓練によってこそ実現できる、身体的表現の必然性に満ちた存在力>を、ク・ナウカとの仕事によって再認識した。俳優にとって、それは恐らく声と身体そのものであり、演奏家にとっては楽器である(楽器は、優れた演奏家にとっては身体の一部と同じである)。それぞれの方法で訓練されてきた身体的表現をコントロールする、表現者自身の意識が、舞台空間に与えられたそれぞれの場で拮抗し、様々な遠近法を生み出す・・・そんなことを願って作曲に取り組んだ。ワーグナーのオペラとは全く異なるアプローチによる音は、ク・ナウカの俳優と絶妙なバランスで共存する。今回の上演は、諸般の事情により一部録音された音を使用するが、音楽は初演時と同じである。
(原田敬子・作曲家 2003年12月 記)